『日本奇僧伝』 宮元 啓一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
行基 – 異能の人
役小角につづいて「異能の人 」の二人目は行基である。奈良の大仏への寄進で知られている行基は、数々の神通力を持っていたと言われている。それでは読み始めよう。
行基菩薩
古代、中世、近世を通じて、わが国でもっとも人気を集めた仏教界のスーパースターは、おそらく、聖徳太子、行基、弘法大師空海の三人であろう。(抜粋)
行基は、行基菩薩という尊称で呼ばれることがある。ここで菩薩とは、「菩提(さとり)を求めて修行にはげむ人」であり、もともとはさとりを開く前の釈尊のみを指した。それが大乗仏教になると、さとりを求めて修行にはげむ(自利行)と共に、生きとし生けるものに慈悲の心を持って救済(他利行)しようとする人ならば、出家であろうが在家であろうが、菩薩であるということになった。
奈良時代には、高僧、名僧の主たる尊称は「菩薩」であったが、平安時代以降になると「上人」、「聖人」「聖」などとなった。鎌倉時代、朝廷から菩薩の号を贈られた興正菩薩叡尊や忍性菩薩は例外である。
ここで、大乗仏教では、「菩薩」は、自利行だけでなく他利行を行うということは大切でして、『日本仏教再入門』などを読むとよくわかったりする。そして叡尊や忍性は師弟なんですが、鎌倉時代に大規模な慈善活動をした人ですね。忍性は日蓮とライバル関係にあったそうで、この辺りは、『日蓮 「闘う仏教者」の実像』に詳しい。『日蓮』の著者の松尾剛次も「叡尊や忍性の功績についてもっと評価されていい」と言っているよ。(つくジー)
行基の出自とその生涯
行基は、天智天皇の七年(六六八年)に、和泉の国に高志(たかし)氏の子として生まれた。先祖は百済王だったという。
行基はその出生から通常と異なる。通常の分娩では、まず赤ん坊が生まれ、そのあとに胞衣(胎児を包んでいた膜や胎盤など)が排出される(後産)が、行基は胞衣に包まれたまま生まれた。両親はこれを不吉なものと思い、生まれたばかりの子を樹の枝分かれしたところに上げ、一晩放置した。そして一晩明けて、両親がおそるおそる見ると、その子は胞衣を出て、おまけに、ちゃんと言葉を喋った。
行基は成長すると仏教に関心がでる。そして、村の子どもたちといっしょに、仏教のすばらしさを語りあうようになった。この地方では牧畜が盛んで、牛や馬を追う子供たちがたくさんいたが、その子どもたちは牛や馬をほったらかしにして、行基の話に夢中になってしまい、いつになっても戻ってこない。困った持ち主たちが見に行くと、行基が小高い山に登り牛や馬に呼びかけた。すると牛や馬は行基の呼びかけの順に持ち主のところに帰っていったという。
行基は十五歳で出家し薬師寺に入る(具足戒を受け正式の僧になったのは二十四歳)。薬師寺で行基は、唯識という難解な教理を説く経典をマスターして法相宗の大儀を窮めた。
慶雲四年(七〇七年)に、二十数年研鑽を積んだ薬師寺を離れ、母を迎えて生駒山に移り住み隠遁生活を送る。そして、ほどなく母が亡くなると隠遁生活を終える。
行基は、諸国遍歴の長い旅に出、民衆の教化、救済に乗り出した。(抜粋)
行基は「説法」のみならず、直接人びとを救済する道を選んだ。行基は、橋を架け、道路を補修し、水田の灌漑を指導し、溜池を掘り、堤防を築くなどの土木工事を指導した。わが国では、仏教はただ仏教だけでなく、中国からの科学技術とワンセットだった。お坊さんはそのような科学技術を伝える役目も果たしたのである。後に弘法大師空海も大規模な、土木工事を行った。
行基には政治的な権力も、そしてもちろん財力もなかった。にもかかわらず、まったく私的にこうした事業を行ったのである。それを可能にしたのは、ひたすら行基の徳力であった。そうしてまた、そういう行基に具わっていると人びとが信じた法力、験力の賜物であった。(抜粋)
行基の験力と神通力
行基の験力を伝える話は多く残っている。ここでは、放生(不殺生戒に基づく)の奇跡譚として、魚の膾(生身を細長く切ったもの)を子供が行基に勧めた話と行基が蛇と嫁に行く約束をした女を助けた話が取り上げられている。
さらに行基は神通(力)の持ち主であると信じられていた。神通力はいろいろあるが六神通が有名である。それは、
- 神足:どこにでもたちどころに行くことができる力
- 天眼通:あらゆるものごとを見通す力
- 天耳通:どんな小さい声、どんな遠くの声でも聞くことができる力
- 他心通:他人の心を読み取る力
- 宿命通:過去世のすべてを知る力
- 漏尽通:煩悩が尽きて解脱したことを確認する力
である。ここでは、行基の神通力の話、天眼通と宿命通の話が取り上げられている。
行基普請と大仏建立
行基の行くところ、出家も俗人も、老いも若きも男も女もみな集まってくる。押しかけ弟子のような熱狂的信者も次々とあらわれる。行基はそのような人々とともに土地土地でその土地の人たちと大工事を行った。
このような行基に対して国は、一旦はその活動を禁止した。しかし、やがて行基の活動を見直し、東大寺大仏建立のため行基に最高級の対応で迎えた。行基は畿内にいくつもの道場を建て、さらにわが国最初の大僧正に任ぜられる。
このような行基に対し妬みを抱くものも現れた。ここでは、智光という僧侶が、閻魔大王に会い、一喝された話が取り上げられている。
いよいよ東大寺の建造も終了し、聖武天皇は行基に大仏供養の大会の講師に行基を指名する。しかし行基は、異国より聖者が到来するはずであるからとそれを断った。行基は神通によりその行程をしり、僧侶を迎えに行かせた。すると浜に一人のインド人の僧侶が上がってきた。
行基は僧たちに向かって、このお方は、南インドの婆羅門で、菩提(菩提遷那、ボーディセーナ)という名でおわす、と告げた。(抜粋)
ここで人々は行基が文殊菩薩であったことを知る。
インド僧が僧正に任ぜられ、大仏開眼法要が行われた。この僧は、普賢菩薩の化身であった。
行基は、大仏開眼供養の三年前に八十歳で入滅している。
関連図書:
末木文美士(編著)『日本仏教再入門』、講談社(講談社学術文庫)、2024年
松尾剛次(著)『日蓮 「闘う仏教者」の実像』、中央公論新社(中公新書)、2023年

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