『日本奇僧伝』 宮元 啓一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
役小角 – 異能の人
序が終わって、今日から本編に入る。今日のところは「異能の人 」のして「役小角」である。ここでは、まず、修験道についてその歴史や修験者たちについて解説がある。そしてその修験者のはしりである役小角についてその逸話を中心に書かれている。それでは読み始めよう。
修験道と修験者
我国の仏教史は、聖徳太子をはじめとし、鑑真、最澄、空海、円仁、円珍、源信、覚鑁、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍、瑩山、蓮如、隠元、白隠など、各宗の開祖や中興の祖などをきら星のように連ねている。日本仏教史を概説するとなると、その中心テーマは、いきおい、こうしたきら星たちの教えと実践、そしてその後世の展開ということになる。しかし、これで日本仏教史が尽くされるわけではない。これをいわば表舞台として、裏舞台に当たるものが存在する。その中心が修験道である。(抜粋)
修験道の行者たちは、世間から離れ、深山に分け入り、いわゆる頭陀行を行った。そして、寺請制度(檀家制度)で僧たちの威信が著しく低下した江戸時代に修験道は大いに民衆の人気を博した。熱心な地方では、農民が山伏修行を行い、富士講、大山講をはじめとした霊山ブームが起こり、人々はこぞって山伏の真似をして、参詣登山を行った。また、幕末維新の頃に現れた二大新宗教である金光教と天理教は、修験道の世界と濃密な接触の中から生まれた。
この「修験道」が明確に独立の分野を確立したのは、平安時代末から鎌倉時代にかけてである。しかし、それ以前から山岳に入って激しい苦行が行われた。陽勝などはそのような苦行をした典型である。彼は仙人と呼ばれ、空を飛んだりしている。また、平安時代には「聖」と呼ばれた人々の多くが山岳苦行を体験し、そこから験力を発揮している。空也や性空もこの聖である。
修験道の開祖、役小角
役小角と孔雀の呪法
この山岳修行を体現した人物として最も古くから諸書に登場するのが、修験道の開祖とされる役小角、別名役行者、役婆塞である。彼は、婆塞(在俗の男の仏教信者)といわれえるように出家ではない。著者は、厳密には奇“僧“ではないが、例外としてご容赦いただきたいと、言っている。
役小角は、大和の国葛城(葛木)の上の郡茅原の村に、舒明天皇の六年(西暦六三四年)に生まれた。生まれつき知的才能に恵まれ博学であったが、やがて仏教に思いを寄せるようになり、若くして家をすて葛城山に入り、三十余年にわたって、激しい苦行の生活を送った。
この際、彼は孔雀の呪法を習得した。この孔雀の呪法(孔雀明王の呪法)は、『大孔雀明王法』と呼ばれる密教(雑密)の経典にのばれている呪法である。インドでは、孔雀はコブラを好んで食べる鳥だとされ、そこから種々の災厄を取り除いてくれるものとして崇拝され、神格化し「明王」と呼ばれるようになった。日本では、孔雀の呪法鎮護国家の呪法なかでも雨乞いの呪法として珍重された。
孔雀の呪法を習得した役小角は、それによって数々の奇異の験術を駆使することができるようになった。(抜粋)
役小角は、鬼神たちに命令し意のままに操る人使いの荒い暴君となった。もし言うことを聞かなければ、呪法を用いてこれを捕まえ、縛り上げてしまうのであった。
ここの孔雀の呪法であるが、司馬遼太郎の『空海の風景』にも出てきたのを思い出した。さらに、空海の風景をモチーフにしたNHKのドキュメンタリー『空海の風景』でも孔雀のシーンがあった(『『空海の風景』を旅する』参照)。空海も若いころに山岳修行をしていたがこのような呪法の習得を目指していたのだと記憶している。空海は774年生まれだから当然役小角を知っていたことになりますね!なるほど、そういうところでつながっているんですよね。キット(つくジー)
一言主神と石の橋
そしてあるとき、役小角は、鬼神たちを集め、吉野の金峰山とか葛城の峰の間に石の橋を築くことを命じた。これは鬼神たちにとってもとても手に負えない大事業だが、役小角は、こうした苦情をまったく聞かず、工事現場に行っては、工期が遅い、何をやっているんだと頭ごなしに怒鳴りつけて回った。
ここに、一言主神という神がいた。この神ははなはだ醜い容顔の持ち主であったため、昼間に働くのを恥ずかしがり、夜間に石橋造りの仕事をした。これを聞き知った役小角は、そのような勝手は許さないと言って、猛烈に神を叱責した。
この話は、平安時代にはかなり有名な話であったらしく、歌にも取り込まれている。また、石橋を作るという話は、秦の始皇帝が海中に石橋を建造するという話と軌を一にする。この話にも容顔がはなはだ醜い神が登場し、始皇帝がこの神に対する接し方のまずさによって石橋建造が失敗することになっている。
実際の葛城は、深山幽谷というほどでなくむしろ浅い方である。そのため、やがて畿内の霊山としてはさらに奥深い金峰山の方が山岳修行の中心地となりつつあった時代の人々が、金峰山を役小角の名で権威づけようとして、始皇帝の石橋建造の話を借用して、この逸話を作ったというのが真相と思われる。
また一言主神については『日本書紀』にも記述があり、これがこの神についての最も古い記録である。
一言主神の復讐と役小角の逆襲
一言主神は、役小角を怨み、人に憑いて、託宣のかたちで「役小角は謀反の下心があり、天皇(文武天皇)を倒そうと企んでおる」と讒言した。
天皇は役小角を捕えるべき勅令を発し役人を派遣する。しかし、役小角は、当代随一の験力の持ち主なので、とうてい捕まえられない。そこで、役小角の母を捕らえるという姑息な手段に出た。これには役小角も手も足もでず、母を解き放つかわりに自ら縄に就き、伊豆へ流されてしまった。この時、役小角は、陸を走るように海を走って渡っていったという。伊豆での役小角は、昼間はおとなしくしているものの、夜になると空を飛び富士山に上がって修行に励んだ。
そして、三年がたち天皇が役小角について博士に尋ねると、役小角はただものではないので、すぐに釈放して都に迎えるのがよいという。そして、役小角は自由の身となった。
すると役小角は、呪法によってまっさきに一言主神を縛り上げ、谷底に転がした。そして今でも葛城山中の谷底には、葛がびっしりまとわりついた巨石がある。そして不思議なことに、この葛はいくら切ってもすぐにまたもとどおりになってしまうのである。一言主神の嘆き悲しむ声は、ずっと後の世まで谷底に響き、途中で工事が取り止めになった石橋の残骸は、吉野と葛城の山中にそれぞれ十数個ずつ散らばっている。
役小角のその後
役小角は、しばらく都に留まったが、あるとき母を鉄製の鉢にのせ、海の彼方へ去ってしまった。
その後、勅命で僧に赴いた道照という僧が、朝鮮半島を旅していると、五百頭もの虎が法師の前に現れ、説法を請うた。法師は、虎たちに案内され新羅の山中で法華経の講義をする。すると、虎たちの間に人がいた。「どなたですかな」と聞くと「役優婆塞と申す」と答えが返ってきた。法師は、これはわが国の聖人に違いないと高座から降りてその人を求めたが、もはや影も形もなくなっていた。
実際の役小角
役小角は、仏教の呪法を習得しながら、その力を古来の山岳信仰のなかで活用した。当時、仏教は外来のもので民衆にはなにか得体のしれない宗教であった。そのため役小角の呪法は葛城の山岳地方の人には畏敬の心をもって魅了するものだった。そのため役小角は、このような人々を統率する首領のようになっていった。
この葛城山と朝廷があった飛鳥は、ほんのわずかの距離しか離れていない。そのため、役小角は朝廷の支配の原理からはずれ人心を集める人物と映った。それが、朝廷が彼を捕縛した最大の理由であると思われる。
また、富士山に役小角の話が出てくるのは、金峰山と同じく後世の修験道の富士山信仰を有名な役小角の名のもとで権威づける作為が働いていたというのが定説である。
修験道、霊山信仰が民衆の間で流行った江戸時代の寛政十一年に、役小角は「神変大菩薩」という称号を朝廷からもらっている。

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