『日本奇僧伝』 宮元 啓一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
空也 – 隠逸の人(前半)
これまで、「異能の人」 、「反骨の人」と続いてきたが、ここからは「隠逸の人」となる。隠逸の人の最初は市の聖として有名な「空也」である。この空也は前半と後半の2回に分けてまとめるとする。それでは、読み始めよう。
空也の読み方
まずは、「空也」の読み方であるが、今日では、これを「くうや」と読むのが習わしとなっているが、本当は「こうや」と読むのが正しい。それは、『日本往生極楽記』において、しばしば「弘也」と表記されていたり、古い時代の平仮名表記は、ことごとく「こうや」となっていることからわかる。
空也と念仏の登場
「南無阿弥陀仏」という六文字の名号を唱える念仏が民衆の間に広まるようになったのは、一にこの空也の功績である。『日本往生極楽記』には、次のように書かれている。
「天慶より以前には、道場や聚落において念仏三昧を修するのは希有なことであった。ましてや、仏道に暗い人びとに至っては、それを修するどころか、かえって忌避するありさまであった。ところが、上人が(都に)おいでになると、上人は、念仏をみずからも唱え、人にも唱えさせられた。それから後、世を挙げて念仏を唱えるという仕儀となった。まことに、これは上人の衆生化度のたまものである」(抜粋)
空也が京の都に上り、念仏を広めたのは天慶元年(九三八年)であるが、その時期も大変重みがあると著者は指摘している。このころ平将門、藤原純友の反乱や菅原道真の祟りとされる事件が続発し、都は大混乱だった。
不安は朝廷、貴族のレヴェルにとどまらず、民衆にも広まっていた。これが、当時ぽつぽつとくすぶり始めた末法意識にいっきょに油を注ぐことになった。そして、まさにこのときに、万人に開かれた空也の念仏が登場したのである。(抜粋)
それまで、念仏は比叡山などで行われる儀式的なもので、一部の貴族を除けば一般にほとんど縁のないものであったが、このタイミングの良さと空也の影響力により、民衆が唱えても誰も驚かないものになった。
空也の生い立ち
空也は延喜三年(九〇三年)の生まれであるがその出自は分からない。『空也誄』によると、空也は十代後半で優婆塞(在家の男の仏教信者)でありながら、各地をめぐって、橋をかけ、野辺に捨てられた屍を弔ったりした。そして二十一歳の時に出家、得度した。その後、空也は、諸国で厳しい修行をした。
諸国での修行
この諸国での修行ぶりについて特に興味深い逸話が2つ取り上げられている。
一切経と金人の逸話
空也は、何年間も播磨の国の峰合寺で一切経の学習に専念していた。このとき経典の文句で意味が分からないところがあると、いつも、夢に金人が現れて教えを授けた。そして夢から醒めて、改めて智者に聞くと金人の教えとまったくおんなじだった。
ここでいう金人は、夢に現れて仏法の疑義を明らかにする妖精のようなものである。中国では『後漢書』の「西域伝」に記述があり、日本では聖徳太子が疏(経典の注釈書)を作成する際に夢に金人が現れたと言われている。
湯島での焼身供養
阿波と土佐の境にある湯島は、観音菩薩像があり、たいへん霊験あらたかであった。空也は生身の観音菩薩にお目にかかろうと湯島にわたり、何か月も苦行を修した。しかし、お目にかかることはできなかった。そこで、尊像に向かい、腕の上に香をのせてこれを焼き、十七日間、不動不眠の行を修した。するとようやく尊像は微妙な光明を発し始めた。しかし、目を閉じると見え、目を開けると見えなかった。
ここで著者は、この「腕の上で香を焼く」という行について解説している。これは、いわゆる焼身供養のことで、数ある苦行の中でもっとも過激な部類に入る。この供養は、現在でも実施する人がいると聞くが、皮膚組織が重度の火傷を負うことになり、傷口が言えても、猛烈なケロイドが残るものである。
市の聖・空也
天慶元年(一九三八年)、空也は都に上り、なかでも喧噪を極める四条の辻を拠点にして、南無阿弥陀仏の六字の名号をみずからも唱え、人にも勧めた。(抜粋)
そのため、空也は「阿弥陀の聖」とか「市の聖」と呼ばれるようになった。
空也が建立した西光寺、後の六波羅蜜寺には、布教をしている空也の姿を写した像が伝えられている。法衣をまとい、首から鉦鼓をぶら下げ、右手に撞木を持ち、左手に鹿の角の飾りをついた杖を持ち、口から「南無阿弥陀仏」の六字が、六体の小さな仏となって吐き出されている。しかし、著者は、これは後世のいわゆる空也僧のいでたちであり、この像が空也の布教の姿を写したものかは疑わしいと指摘している。
空也の出奔、山中での喧噪と市中での安息
空也もはじめは山中の山にあって多くの弟子たちの指導に当たっていた。しかし、そのような山の生活は空也の心に叶うものではなかった。
空也や折につけ、ふと独り言を洩らすことがあった。
「いやはや、なんと騒がしいことよ」(抜粋)
そして、あるとき空也は誰にも告げずに、突如として姿をくらましてしまう。弟子たちも八方手を尽くして探したが見つからなかった。
空也は、ひそかに市中に潜り込んでいた。その住まいはむしろを懸けただけのものであり、食べ物は、壊れた椀に誰かが放り込んだ残飯を食するだけだった。
あるとき、かつても弟子が市中に赴いたとき、乞食坊主をしている空也を発見した。弟子は、びっくりして空也に「あの静かな山の中でも騒がしいと仰っていたのに、なんでこんな騒がしい市中においでなのですか」と尋ねた。すると空也は「山中では衆僧を教え、育てていて、ひと時も休まることがなかった。この市中の方がかえって安息無事である」と答えた。弟子は、泣く泣くその場を離れるしかなかった。
空也が罪人たちの教化に力を入れた話
空也が罪人たちの教化に力を入れたという話が、いくつか伝えられている。(抜粋)
獄舎のかたわらの塔
空也が獄舎のかたわらに塔を建立した。そこに安置されている仏像の顔は満月のように輝き、廂につけた宝鐸は涼しげな音をたてた。そのため囚人は、仏の尊顔を仰ぎ、法音を聞くことができるようになって、涙を流して喜んだ。
盗賊を諭す空也
空也が夜更けに寂しい道を歩いていると、数人の盗賊が現れた。空也が「私が沙門と知ってのことか」と問いただしたが、盗賊たちは少しも動じない。すると空也は、突然わあわあと泣き出してしまった。これには盗賊も飽きれて、「無一物こそ沙門の本来っていうじゃないか、どうしてそんなに物惜しみをするのか」と尋ねた。すると「貴公たちは、善業を積むために人身(人の身体)を受け継いだのに、悪業をなしている。来世において、この罪の果報を免れることはかなわぬ。そのため拙僧は貴公たちのことを思い泣いているのだ」と言った。これを聞いた盗賊たちは、この沙門が空也であると知り、算を乱して逃げて行った。
そして、翌日空也のもとに、剃髪したばかりの男たちがやって来た。この者たちは空也に涙を流していった。「昨晩、たまたま上人様にお目にかかり、お誨しの言葉を拝受しまして、先非を悔い、そろって出家した次第でございます」と言ったという。
南無阿弥陀仏と盗賊
あるとき、鍛冶の工が空也のところを通りかかった。工は大金を懐に帰る途中であったので、空也に尋ねた「もはや日も暮れてしまったが、帰り道は遠い所である。大金を所持しているので、どうも不安でなりませんが、いかがいたせばよいでしょうか」。空也は「ただ一心に南無阿弥陀仏を念じなさい」と答えた。
そしてこの工は、途中盗賊に行き会った。そこで上人の指示どうりに、心に阿弥陀仏を念じた。すると盗賊はこれを見て、市の聖にておわしますわいと言って逃げて行った。

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