『日本奇僧伝』 宮元 啓一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
空也 – 隠逸の人(後半)
今日のところは、「空也」の”後半“である。”前半“では、「市の聖」と称される空也の出生から各地での修行、そして寺での生活を捨て都での布教までであった。今日のところ”後半“では、空也の更なる逸話を交え、空也から始まる念仏信仰が千観、源信をはじめとする高僧にまで広がっていく様子が取り上げられている。それでは、読み始めよう。
高僧が空也の臂を治した逸話
空也にまつわる奇瑞譚として、高僧が空也の臂の曲がりを治癒した話がある。これは、古い文献にはでこず『宇治拾遺物語』あたりになり登場した話である。
昔、空也が所用があって、一条大臣殿(源雅信)のもとに参上したとき、余慶僧正が居合わせた。そのとき僧正は、空也の臂が曲っていることに気がつき、どうしてかと尋ねた。空也は「幼児のころの話で、覚えていないが、後から聞いた話では、あるときわが母が怒り、わが片手をつかんで力まかせに放り投げた。そのとき臂を折ってしまったのである」と答えた。僧正が「それでは私が臂の曲がりを祈り治してごらんにいれたいと思うがいかがなものか」というので祈禱しもらうことになった。
僧正は頭の天辺から黒い煙を立ち上がらせながら加持したが、ややあって、上人の曲った左の臂が、パシッと音を立てて真っすぐに伸び、右の臂と同じようになった。(抜粋)
その日、上人は若い聖三人を連れて僧正のもとにやってきた。一人は縄を取り集める聖で、その拾った縄を混ぜて練った壁土で、古い堂舎の崩れた壁を補修することに努めた。一人は、捨てられた瓜の皮を拾い集め、洗って、獄の中の囚人たちに与えることを常としていた。もう一人は、反故(不用になった紙)を拾い集め、もう一度漉き直して、経典を書写していた。そして、上人は、臂が治った御礼の布施として、この反故の聖を僧正に奉った。
著者は、この逸話について、「高い所から落ちて臂が曲った」とか「母と父の間にいさかいがあって、母が腹立ちまぎれに、地面に投げつけた」とか、幾つかの話があり、また、古い文献には出て来ないこと、空也は父母について何も語ってないこと、などをあげてこの話はいささか眉唾であるとしている。しかし
いずれにしても、この逸話からは、空也が育った家庭が、子供にとってあまり居心地のよくない家庭ではなかったかと想像される。(抜粋)
と言っている。
千観と源信
空也は、一般の民衆に広く迎え入れられたが、やがて、既成教団の高僧たちにも深い影響を与えるようになる。(抜粋)
その代表が千観と源信である。
千観は、園城寺の学僧であったが、町なかで出会った空也の話に衝撃を受け、自身の名声を捨てて隠遁した。そして念仏三昧に明け暮れるかたわら、浄土教の興隆に貢献した。千観に関しては、後の「千観」の項を参照。
源信は、恵心僧都とも呼ばれる比叡山の高僧であった。彼は、わが国の浄土教の原点というべき『往生要集』を書き、しばしば「日本浄土教の祖」とみなされている。
源信と空也の出会い
どこまで史実であるか不明であるが、源信と空也の出会いの話が伝わっている。
恵心僧都源信は、空也にお目にかかろうと山をおりて空也のもとを訪ねた。空也はすでに高齢であったが、一見して只ものではない気品があった。源信は、「自分は極楽往生を願う心は深いが、果たして極楽往生を遂げることができるでしょうか」と尋ねた。すると空也は「拙僧は無知である。どうしてそのようなことが判ずることができましょうか」といったのち、次のように言った。
「ただ、智者の申されたことを、つらつら考えてみるに、貴僧が往生できぬということはござるまい。そのゆえはと申せば、こう言われておるからじゃ。つまり、もし人あって六行観を修して上界の定を得ようとするとき、『下地は麁(粗雑)なり、苦なり、障なり。上地は静なり、妙なり、離なり』ということを信じて、下地を下劣な様を厭い、上地のすぐれていることを心に念ずれば、その観念(瞑想)の力によって、順次に境界が進み、ついには非想非非想処まで至ることができると言われておる。このようなわけであるから、極楽往生を願う行者の場合も、また同じことじゃ。たとえ、智慧や行徳がなくとも、穢土を厭い、浄土を願う志が深いのであれば、どうして往生できぬということがござろうか」(抜粋)
これを聞いた源信は、「これは誠にこの上ない素晴らしい教えでございます」と言って、涙を流し深く帰依した。そして源信は『往生要集』を著したとき、このことを念頭に「厭離穢土、欣求浄土」を第一の原則とした。
ここで著者は、六行観について説明した後、空也の言葉で問題になっているのは、
この六行(相)観においても、現状ないしそれ以下の状態を厭離し、上の方の状態を欣求するということである。(抜粋)
と指摘している。
空也の験力譚
空也は、狂にのぼるまで各地で修行した。そもそも「聖」とは「仙人」の別名として用いられたことから察せられるように、空也の験力に関する逸話も残っている。
智者としてしられる仲算大徳は、喜多院の空晴僧都の弟子であった。まだ仲算がおさないころ、空也が空晴のもとに経典のことばについて尋ねようと訪れた。ところが空晴は不在で仲算だけが留守番をしていた。子供が一人でいることを可哀そうに思い空也は、「碁を打ってあげるから、そこの碁盤をもってきなさい」と言った。しかし碁盤が重くて持ち上がりそうもない。すると、空也は、この数珠を碁盤の上に置きなさい」と言ったので、仲算が数珠を上に置くと、数珠が碁盤に巻き付いて、聖のもとへそれを運んできたという。
空也と松尾明神との出会い
また、冬のさなか、人間の姿を借りた松尾明神が寒さに難渋している時に空也と出会った話が伝わっている。この時、空也は小袖を譲り、こう言った。
「拙僧が下に着ておる小袖は、この四十年余り、起き居につけ、法華経を読誦したその功徳が染みこんだ衣でござる。垢にまみれていて、いささか申し訳ござらぬが、これを奉ろうと存ずる」(抜粋)
この小袖の奉納を受けた松尾明神は、今後、空也を庇護することを約束して伏し拝んで去った。
ここで、著者は、この話から空也が熱心な法華経の信奉者(法華経の持者)であることが分かると指摘している。空也というと念仏であるが、空也が念仏「だけ」を修していたというわけではない。
念仏「だけ」を修する「専修念仏」は、浄土宗の開祖の法然上人から始められたというのが通説である。
空也の臨終
空也は、天禄三年(九七二年)の九月十一日に、西光寺(六波羅蜜寺)で入滅した。享年六十九歳であった。

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