蜀の五虎将軍(その1)
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第二部 — 蜀の五虎将軍(その1)

今日から「蜀の五虎ごこ将軍」に入る。ここでは、蜀の五人の猛将、関羽かんう張飛ちょうひ趙雲ちょううん馬超ばちょう黄忠こうちゅうの五人についてまとめられている。この五人は、陳寿ちんじゅの正史『三国志』の「蜀書しょくしょ」第六にまとめて収録されているため、後に「五虎将軍」と呼ばれるようになった。

著者は、この五人について本伝及び裴松之はいしょうしの注にもとづき、「出自」「劉備との関係」「パーソナリティー」「武略」「人気」などを比較検討している。この節は3つに分けてまとめるとする。それでは読み始めよう。


五虎将軍の出自

関羽・張飛・趙雲 劉備軍団の生え抜きの将軍たち

名実ともに「五虎将軍」のナンバーワンは関羽あざな雲長うんちょうである。もともと劉備とは違う地方の出身だが、事件を起こして出奔し、劉備と巡り合った。彼は名のある家柄の出ではなく、若いころから任侠にんきょう肌の人物だった。しかし、根っからの庶民ではなくかなり教養があった

「五虎将軍」のナンバーツウは張飛あざな益徳えきとくである。彼は劉備と同郷であり、根っからの庶民であった。関羽と違知性とはほとんど無縁であり、ただひたすらに力と情のみの人物だった。

この二人が、漢王朝の血筋を引くと称する劉備と出会ったのである。そのころは、劉備自身も、貧困のどん底にあり、わらじ売りまでして糊口ここうをしのぐありさまだった。そしてこの高貴な出を思わせる劉備の堂々とした風格や人柄が功を奏して、軍資金を出してくれる大商人があらわれたため、黄巾こうきんの乱」が勃発したころ、劉備は一旗揚げることができた。

この劉備の急ごしらえのオンボロ軍団の中心となったのが、かの関羽と張飛だったというわけだ。(抜粋)

「五虎将軍」のナンバースリーは趙雲あざな子龍しりゅうである。彼もまたなにがしかの家柄の出ではない。彼は若いころから武勇に優れ群雄のひとり公孫瓚こうそんさんの軍団に加わったのが武将としてのスタートであった。そして、公孫瓚のもとに身を寄せた劉備と知り合った。二人の間にはすぐに固い信頼関係が生じたが、趙雲が劉備につき従うのは結局、公孫瓚の敗死後二年たった後だった。それ以降、彼は劉備軍団になくてならない貴重な存在として、活躍し続ける。

趙雲が劉備の部将となったのは、関羽や張飛に比べれば確かに遅れを取っているが、彼も劉備が蜀を獲得し確固たる根拠地を得るまでの十有余年、劉備と共に辛酸をなめ尽くした。その意味で彼も関羽や張飛と共に劉備軍団の生え抜きの部将と言える。

馬超・黄忠 遅れてきた将軍たち

五虎将軍のあとの二人は、いずれも時代が下がり、劉備の勢力が強まってからその傘下に入っている。その点で、先の三人のような生え抜きグループとは区別される。

馬超あざな猛起もうきは、歴とした豪族の出身であり、西涼せいりょうを根拠地とした地方軍団のリーダーだった。彼は盟友韓遂かんすいと連合し曹操に対して反乱を起こし、その武勇で曹操を悩ませた。やがて敗北と敗走を重ね劉備が蜀の首都成都せいとを包囲した時点で劉備に降伏し傘下に入った。以後劉備に厚遇され活躍したが、劉備に付き添った期間はわずか八年にすぎない。馬超が最も輝いたのは一匹狼として曹操に対抗した時期であった。

五虎将軍の最後は、黄忠あざな漢升かんしょうである。彼は、荊州の支配者劉表りゅうひょうに仕えていた。その出自ははっきりしないが土着の豪族の可能性もある。黄忠は、劉備が荊州南西部の諸州を平定したときに劉備に降伏し傘下に入った。黄忠の名を一気に高めたのは、建安二十四年の魏軍との漢中での戦いであった。このときよわい七十の黄忠の獅子奮迅の活躍により、戦局が蜀軍の優勢となった。この時の功績により黄忠は、征西将軍に昇進たした。

一口に「五虎将軍」と言っても、関羽・張飛・趙雲のような劉備軍生え抜きのものと、馬超・黄忠のような劉備軍に降伏した後傘下に張った者の間には、その落差は大きいといわざるをえない。

しかし結局、こうして異質な人材を急襲することによって、劉備軍団の層は厚くなり、念願の根拠地蜀を獲得することに成功したのだった。(抜粋)

五虎将軍と劉備の関係性 ーー 関羽・張飛、別格の存在

「五虎将軍」の中で、関羽と張飛は、劉備と主従関係をはるかに超え、絶対的な相互信頼を軸とする運命共同体を築いていた。その意味で、他の五虎将軍とは違う別格の存在であった。

そして、関羽と張飛は全存在を賭けて劉備に打ち込むため、後年、劉備のブレーンとなった人々にライバル意識を持ったり嫉妬したりした。

諸葛亮が劉備の傘下に入った時は、関羽と張飛の機嫌が次第に悪くなった。しかしそれに気づいた劉備が「わしに孔明こうめいが必要なのは、ちょうど魚に水が必要なのと同じだ。君たちは二度と文句をいわないでほしい」となだめた。すると彼らはすっかり納得した。

馬超が、劉備軍団に加わり、大いに厚遇されると、当時荊州に駐屯していた関羽がライバル意識を燃やし、馬超とは誰と匹敵する才能の持ち主なのかと問い合わせの手紙を送った。劉備からの返事は「孟起(馬超)は文武の才能を兼ね備え、武勇は並外れた傑物であり、(前漢の)黥布げいふ彭越ほうえつのともがらである。益徳(張飛)と先を争う人物というべきだが、やはりひげどのの比類なき傑物ぶりにはとうてい及ばない」とプライドの高い関羽を持ち上げたものだった。関羽はこれをとても喜び、来客に見せびらかしたという。

このように彼らの劉備に対する思い入れは、並外れたものであった。しかし、

いずれの場合も、その自尊心の高さやライバル意識には陰湿な要素は、まったくない。ちょっとなだめられれば、即座に気分転換していつまでも根にもたなかったのだから、まさにあくまで陽性の豪傑そのものだったといえよう。(抜粋)

このような固い結束のため、劉備にとって関羽と張飛は何物にもかえがたい心の支えだった。そして関羽が呉によって殺され、張飛が自らの部下によって殺されたときの劉備の喪失感は、想像を絶する。そのため、彼は関羽の報復のため、無謀な戦いを仕掛け惨敗し、再起不能になって盟友の後を追うように亡くなってしまった。


初出掲載誌:(歴史群像シリーズ「群雄三国志」九二年三月、学研)

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