『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第二部 — 諸葛孔明(その5)
今日のところは、いよいよ「諸葛孔明」の最終節“その5”である。この章では、諸葛孔明がなぜ果敢に魏に挑戦し続けたのか、という問題について考察している。彼の「天下三分の計」の向こうには、天下統一があり、そのため国力が圧倒的に違う魏に挑戦し続けた。さらにここでは、その戦略家・行政家・軍事家としての活躍を総括している。それでは読み始めよう。
むすび
諸葛亮は晩年の力を奮いたたせ、なぜかくも執拗に北伐にこだわり、魏に挑戦し続けたのだろうか。(抜粋)
この問題に対して、まず三国分立とはいえ、魏・呉・蜀の割合は六対三対一程度であり、最小国家の蜀としては、じっと蜀の地に留まっているだけでは、いずれ魏に押しつぶされるという認識と危機感があった。しかし、著者はそうはいっても、三国分立は相対的な安定期に入っていて、そこまでの危機感があったとはいいがたいとしている。
内藤湖南はその諸葛亮論『諸葛武侯』において「抑も鼎足なる者は一時の権宜、此に因て其の経略の基を建てるに過ぎず、侯(諸葛亮。引用者注)の本志にあらず」、つまり、諸葛亮にとって三国分立は、過渡的なプロセスにすぎず、けっして三国分立じたいが彼の最終目的ではない、と述べている。(抜粋)
つまり、三国分立は天下統一をめざす基礎にすぎなかった。天下統一という大目標のため、限られた条件の中でベストを尽くして北伐に挑んだと解釈できる。
諸葛亮は、劉備との出会い「三国分立の計」を授けた後、劉備と共にまず荊州に本拠地を持ち、そして蜀を攻略し、国力を充実させて、最終的には北中国に狙いを定めていた。
しかし、この諸葛亮の計画が軌道修正せざるを得ない事情が起こった。呉との決別と関羽の死により荊州を手放さざるを得なかったことである。また、関羽の弔い合戦を挑んだ劉備があっさり死んでしまった。
ここにおいて、諸葛亮は暗愚な遺児劉禅を輔佐しながら、呉との同盟を軌道修正し、行政テクノクラートを養成しながら国力の充実に力を注いだ。諸葛亮は何をやらせても超一流だったが、シビリアンとしての能力はとくにめざましいものがあった、と著者は評している。
そして諸葛亮は「南中征伐」に勝利しいよいよ中原への進出という「天下三分の計」の最終ステップへの一歩を踏み出す。
戦略家・シビリアン・軍事家として、全人的な才能を持った諸葛亮は、事を進めるにあたって徹底した合理主義者であった。
しかし実は、このプロセスにおける合理主義者諸葛亮は、根本的に、計算を度外視して内なるパトスに衝き動かされる、大いなるロマンティストにほかならなかった。(抜粋)
著者はこのようにいって、「三顧の礼」に感動して劉備の軍師になったこと、劉備の信頼にこたえて劉禅を輔佐し続けたこと、そういう行為に、諸葛亮の激しいロマンティズムを認めている。
さらに、「赤壁の戦い」の直前に孫権を説得した際に「もしも事が成就しなければ、それは天命です」といい、「後出師の表」に「(およそ事の成り行きには予想しがたいものがありますが)臣は謹んで力を尽くし、死してのち已む覚悟です」と述べていることをあげ、「人事を尽くして天命を待つ」が彼の根本哲学だったと評している。
こうして壮大なロマンの実現をめざし、全力を尽くして懸命に戦い抜いた果てに、諸葛亮は、秋風吹く五丈原の陣中で、すべて天命なりと達観して死んでいった。まことに凄絶にして爽快な生涯だったといえよう。(抜粋)
初出掲載誌:(「歴史群像」九二年六月、学研+「ザ・ビッグマン」九二年八月、世界文化社)

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