『フランス 26の街の物語』 池上 英洋 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
Chapter 3 歴史の断片 / 繰り返された脱出劇 —- Dunkerque(ダンケルク)
史上最大の救出作戦
ダンケルクの海岸は史上最大の救出作戦があった場所である。一九四〇年五月二六日から六月三日にかけて、イギリス兵、フランス兵を合わせて三四万人の兵士が、この北フランスの海岸からイギリスへの撤退に成功した。
これは日本ではあまり知られていないがヨーロッパでは有名である。また二〇〇七年に「ダンケルク」の名前で映画化されている。
追い詰められた英仏連合軍
ナチス・ドイツ軍のポーランド侵攻を受け、フランスとイギリスはドイツに宣戦布告し、フランスは対ドイツ防衛の要塞線(マジノ線)に入って防御を固めた。ドイツはベルギーへ侵攻すると考え築かれたものである。そして、イギリス軍もベルギー国境近くへ移動する。
当初ドイツもベルギーからフランスへ侵攻(黄色作戦)することを考えていた。しかし、ここでアクシデントが起こる。作戦機密文書を載せたメッサーシュミットがエンジントラブルのため墜落し、作戦文書が連合軍に渡ってしまったのである。そして混乱を極めた結果、ドイツは一旦不採用となった作戦「マンシュタイン作戦」に切り替えた。それは、フランスとベルギー、ルクセンブルクにまたがるアンデンヌの森へと進む作戦であった。
そして、最新鋭の兵器を持つドイツ機甲師団がアンデンヌの森を突破した。マジノ要塞防衛線をはじめベルギー南国境ラインに集まった英仏連合はオランダ経由できたから降りてくるドイツ軍と、ベルギーの南国境に達していたドイツ軍との挟み撃ちにあってしまう。
連合軍は、海岸線沿いに逃げるがダンケルクの浜辺に来たところで包囲されてしまう。このままでは、英仏の連合軍は壊滅に近い大打撃をこうむってしまう。
ダンケルクのもう一つの脱出劇
かつて激戦の地で大撤退戦の場所であったダンケルクは、ベルギーから一五キロほどしか離れていない、フランス最北端の街である。
この地域はたびたび大国間で領有権の争いがあり、振り子のように両勢力の間を行ったり来たりしていた地域である。その過程で、ジャン・バールという異色の海賊の誕生の地となった。
一六五〇年にダンケルクで生まれたジャン・バールは、代々水兵の家系であった。この地域の水兵は、仕える国を固定することなく雇ってくれる主人のために軍船で戦う傭兵を生業としていた。
雇用関係がない時は海賊もしていたが、無所属の海賊でも一国の海軍のように行動し、ときには国から褒賞されることもあった。
彼は幾度の戦いで成果を上げた後、一六八九年から正式にフランス王ルイ一四世と主従関係を結び、イングランドとオランダの商船や軍艦を拿捕し身代金を得るなどをしていた。
そして彼が指揮する船団がダンケルクに停泊中、イングランドとオランダの連合艦隊が港を封鎖してしまった。このような危機的状況でジャン・バールは、七隻のフリゲート艦により強行突破で包囲から脱出した。
一六九四年に彼は、長年の功績を認められ、ルイ一四世から騎士十字を授けられた。彼はダンケルクのサンテロワ教会に埋葬され、街で一番大きな広場の真ん中にその銅像が建てられた。
感動的な結末
それから約二五〇年のちに起きた、あらたなダンケルク包囲網からの脱出作戦は、感動的な結末を迎える。(抜粋)
海峡を挟んだイギリスから、軍艦だけでなく数多くの商船や漁船なども兵士を運ぶためにやって来た。脱出を防止しようとするドイツ軍の爆撃や砲撃をかいくぐり、大砲はおろか銃すら持たないそれらの船が活躍する。イギリス議会ではウィンストン・チャーチルが「我々は絶対に降伏しない」という演説で国民を奮い立たせていた。こうして、史上最大の救出作戦は終わった。
その後、空っぽになったダンケルクの街に入ったナチス・ドイツ軍は、あのジャン・バールの銅像を接収することをしなかった。なぜなら対英戦で功績をあげたジャン・バールは、イギリスに向けて剣を振り上げているからである。

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