陽勝 – 異能の人
宮元 啓一 『日本奇僧伝』より

Reading Journal 2nd

『日本奇僧伝』 宮元 啓一 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

陽勝 – 異能の人

「異能の人 」の三人目は陽勝ようしょうである。日本には仙人と呼ばれる人も多く存在したが陽勝は、その仙人の中でも有名な人である。彼には仙人としての様々な逸話が残っている。それでは読み始めよう。

わが国の仙人

仙人とは、仙道を修した人のことである。仙道というのは、中国の道教が理想とした道である。

この仙人は平安時代中、後期まで実在、架空を取り混ぜて伝わり、久米くめの仙人陽勝日蔵にちぞうを筆頭に『本朝神仙伝』(鎌倉時代、大江匡房おおえのまきふさ)によると、倭武尊やまとたけるのみこと、聖徳太子、役小角えんのおずぬココ参照)、弘法大師空海、さらには浦島太郎までが仙人の仲間とされている。

日本は、仏教や儒教と同じように道教も中国から受け取り、道教が伝わったのは遅くとも五世紀末とかなり早い時期であった。皇族や貴族の間では吉野が特別な意味を持ったのは、古くからあった山岳信仰と道教の蓬莱ほうらいの神仙道への憧れが重ねあわされたためであり、方角も陰陽おんみょう道で純粋な陽である南であった。また、道教は民間信仰に深く浸透し、また奈良時代平安時代の文人は、道教の神仙的雰囲気を愛好して懐風藻かいふうそうから『本朝神仙伝』にいたるまで、神仙趣味にあふれた文芸作品は多い。

しかし、不思議なことに本場中国では、仙人は羽化登仙うかとうせん、不老不死の霊薬を求めて、それを服するが、日本の仙人の話にはそのような霊薬はほとんど出てこない。この霊薬は、水銀や薬草から抽出した幻覚作用剤、いまでいうドラッグである。
これは本当に不思議なのであるが、世界広しといえども、ドラッグを、瞑想など宗教的異次元の世界への跳躍の補助手段としてまったく使用しなかったのは日本ぐらいのものではないかと思われる。(抜粋)

日本にも幻覚作用を持つキノコなどもあるのに、長い間それに関心を向けなかった理由は何か、著者は非常に興味をそそられる問題だと言っている。

陽勝が仙人となるまで

陽勝の生涯は、伝説の中にありはっきりしたことはわからない。貞観十年(八六八年)もしくは十一年に能登の国に生まれたとされる。俗姓は氏といった。十一歳のとき比叡山に登り、空日律師くうにちりっしの弟子となる。陽勝は大変聡明で、一度聞けば、それすべてを理解した。法華経の膨大な経典を暗唱できるようになり、天台宗瞑想法である止観しかんに習熟した。

陽勝は、生来の素質と修練があいまって、心の動きに起伏が無く、喜怒哀楽を面に出すことはなかった。日々精進し睡眠はまったくとらず、横になって休息することもなかった。陽勝は、慈悲の心が深く、生きとし生けるものを憐れみいつくしんでやまなかった。

何歳のころかは分からないが、陽勝は、金峰山に登り、いにしえの仙人の草庵を訪れ、仙人になる決意を固めた。(抜粋)

そして、南京(奈良)の牟田むた寺で仙人になる修行を行った。修験道の教えに沿って、まず五穀をたち菜っ葉類だけを食するようにし、やがて菜っ葉類もたって木の実、葉の実だけを食べるように修行を進め、やがて一日に粟一粒のみで、飲食を停止するにいたる。そして僧衣の代わりに、藤やかずらつるの繊維で編んだ粗末な衣をみにつけた。このように衣食への執着を完全に断ち切ると、無上正等覚むじょうせいとうかく(さとり)を目指して、後は住を捨て去るのみである。

延喜元年(九〇一年)の秋、陽勝は、突如いずこかに去り、雲を霞と行方をくらました。三十三歳のときのことであった。(抜粋)

仙人、陽勝の伝説

ただ、その後陽勝を見たという人がいなかったわけではない。(抜粋)

ここからは、仙人陽勝の伝説世界の話が並んでいる。

吉野山で修行をしていた恩真おんしんの証言では、陽勝はすでに仙人になり身体に血肉なく、妙な骨組みで尋常でない毛におおわれていたという。そして体から羽が生え麒麟や鳳凰のように空を駆けているのを目撃している。

さらに、陽勝は熊野の松本の峰でかつて比叡山でともに修行した僧と、仏法上の疑義について問答を交わしたという話が残っている。

さらに次のような話がある。大峰山に連なる国見山で修行をしていた僧が数日にわたって何も食べずに法華経を読誦していると、青い衣をまとった童子が白米を持ってきた。わけを尋ねると童子はこの食物は陽勝仙人の志であると述べ、いず方となく消えた。ここでは、もう一つ同様な話が収録されている。

陽勝とその親にまつわる逸話

陽勝の親が病床に伏して万死に一生の望みがなくなったとき、陽勝を懐かしみこうつぶやいた。

「子供は大勢いるけど、陽勝こそは、わが最愛の子じゃ。陽勝よ、もしもわが心がおまねに通じたならば、どうかお願いじゃ、すぐにここにやってきて顔をみせてほしい」(抜粋)

神通でこれを知った陽勝は、ただちに飛行し上空で法華経を読誦し始めた。陽勝はこう語りかけた。

「私は、火宅かたく(法華経『譬喩品ひゆぼん』にでてくる三界、つまり苦しみに満ちたこの輪廻りんねの世界のたとえ)を去り、俗塵ぞくじんを離れ、人里には姿を現わさないとはいえ、あえてここにやってきて、経を読誦し、ともに話を交わしたく存じます。これもひとえに孝養のためにというわけです」(抜粋)

そして、こうも語った。

「毎月十八日には、香をき、花を散らして私をお待ち下さい。私は、香の煙をたどってここにやってきて、経を読誦し、法をとき、生まれてより受けた恩徳に報いたいと思います」(抜粋)

ここで「香を焼き」とあるのは、次の一説により分かる。

「香を焼き」することの意味

ひとつ目は、比叡山の静観じょうかん増命ぞうみょう)僧正という座主ざすの話である。この座主は尊勝陀羅尼そんしょうだらに]という、ありがたい呪文を長年夜になると唱えるのを常としていた。そこに空を飛んでいる陽勝仙人が通りかかる。陽勝はこの陀羅尼を唱える声が耳に入ると、もっと近くで聞きたいと思い、近づいていきついには坊の廊下の欄干の上にまで来てしまう。

僧正がこれに気づき誰だと問うと「陽勝仙人でござる。それを飛んでおったのじゃが、ちょうどこの上にさしかかったところ、尊勝陀羅尼を唱える声の耳にし申して、ここに参った次第でござる」と答えた。そして僧正に入るように促された陽勝は、僧正の前に座り、これまでの話を僧正に語る。

そして、今日のところはこれまでと立ち上がるが、人の気配に押されて立ち上がれない。そして、「すまにが、そこの香炉の煙をこちらの方へ近づけて下され」といい、僧正が香炉を近づけると、その煙に乗って空へ登っていった。

もう一つは、比叡山への飛行の話である。比叡山の西塔では、毎年八月に一週間ほど、昼夜を分かたず連続して念仏を唱える不断念仏という行事が行われる。そして陽勝はこの時期に限り比叡山を訪れ、慈覚じかく大師の遺跡ゆいしゃくを拝んだ。

なぜこの時期にと尋ねられると陽勝は、この山には、あふれんばかりの信施(信者からの布施)のため、俗悪の火災がいつも空に満ちて、飛行できない。しかし、この不断念仏が行われている時期だけは、火災は消えてなくなり、念仏の功徳くどく清浄しょうじょうな焼香の煙のため臭気も消える。だからこの山に降り立つのだ。

この二つの逸話を踏まえて著者は次のように言っている。

つまり、仙人になって完全に俗世間から離れた者は、俗世間の汚れには耐えられない。であるから、不断念仏であるとか、このうえなくありがたい尊勝陀羅尼であるとか、焼香の煙であるとかといった、周囲の邪気を払う清浄なものに頼らなければ、俗人のいるところには姿を現わすことができないのである。(抜粋)

この仙人は、考えようによっては黄泉よみの国に住まいをなす死者である。冥府めいふじきをいったん口にしたものは、現世うつしよの食にはとても近づけないというが、これに似ている。

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