諸葛亮はなぜ蜀を選んだのか
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第二部 — 諸葛亮はなぜ蜀を選んだのか

今日のところは「諸葛亮はなぜ蜀を選んだのか」である。諸葛亮は、「天下三分の計」で劉備にまずは蜀を支配することを勧めた。ここでは、中国史での蜀の立ち位置を考察し、当時の状況として諸葛亮が蜀を選ぶことが合理的であったことが示される。それでは、読み始めよう。

古い時代の蜀

蜀は、険しい山脈に囲まれているため、紀元前四世紀後半の戦国時代中期まで中原ちゅうげん黄河こうが流域)と没交渉であった。しかし、戦国七雄の一つ、秦に敗れてから中原の影響を受けて急速に発展する。そして蜀の太守李冰りひょう都江堰とこうえん」を建設して以来、農業生産が飛躍的に発展する。

乱世には拠点となった蜀

始皇帝による秦の全土統一がついえた後の乱世では、まず紀元前二〇六年に前漢の高祖劉邦りゅうほうが蜀及び漢中かんちゅう王になる。劉邦は蜀・漢中を根拠とし、紀元前二〇二年に項羽を撃破して前漢王朝を立て中国全土を統一した。そして蜀はさらに発展し、農業以外でも蜀錦しょくきん(蜀の錦織)をはじめとした商工業が発展した。

地勢堅固で物産の豊かな蜀は乱世では自立の拠点となりやすかった。前漢滅亡後には、公孫述こうそんじゅつがこの地に依拠する。彼は、後漢王朝初代の光武こうぶ帝に平定される。しかし、後漢が衰亡し、群雄割拠の乱世になると蜀を根拠地とする勢力があらわれる。

後漢末にまず蜀に依拠したのが劉焉りゅうえんである彼は、道教の一派五斗米道ごとべいどうの教祖、張魯ちょうろと結託し自立する。その後五斗米道が曹操に滅ぼされ、劉焉が死去すると息子の劉璋りゅうしょうが後を継いで、蜀の支配者となる。

諸葛亮が見定めた蜀の利点

三顧さんこれいに打たれた諸葛亮は、劉備に「天下三分の計」を説く。ここで彼は、百万の軍勢を持ち天子の後見人として北中国を制する曹操は、とても対等に戦える相手ではない、また、三代にわたって江東を制している孫権そんけんは味方につける相手であって敵に回してはいけないと言い。さらに、そうであれば、将軍(劉備)に残されているのは、けい州と益州(蜀)だけであると続けた。荊州の支配者劉表りゅうひょうは余命いくばくもなく、益州の支配者劉璋は暗愚で問題にならない。

ちなみに、諸葛亮は、「益州は地盤堅固であり、豊かな平野が千里も広がる『天府(天のくら)』です。高祖(劉邦)はこれをもとに皇帝になりました」とも述べている。(抜粋)

著者は、諸葛亮が劉備に蜀を勧めた理由として次に3点をあげている。

  1. まだ曹操も孫権も手をつけていない唯一の地域であるという現実的・戦略的条件
  2. 地勢堅固で物産が豊かであるとう地理的・経済的条件
  3. 前漢の高祖の拠点であったという歴史的条件

そして以後、諸葛亮は劉備の軍師となり、天下三分の計を実現するために、知略の限りを尽くす。

そして劉璋からの要請で蜀に入り、その後蜀を奪取し劉璋を追い出すことで蜀に拠点を獲得する。さらに曹操軍との戦いに勝ち漢中をも支配下にする。関羽の敗戦により荊州を失ったが、本拠たる蜀は揺るがず、劉備は即位し蜀王朝を立てた

劉備の死後も暗愚な劉禅を輔佐し諸葛亮は、曹氏に戦いを挑み続ける。諸葛亮が没陣した後も、蜀は劉禅の元、魏に滅ぼされるまで三十年近くも持っている。劉備が蜀を支配した時点から数えれば約五十年である。

他の二国(魏・呉)に比べれば、めだって弱体な劉氏の蜀は堂々と自立し、三国分立の一翼を担いつづけたのである。蜀にぴったりと標準を当てた諸葛亮の読みの深さが知れようというものだ。(抜粋)

初出掲載誌:(「司馬遼太郎 街道を行く」、二〇〇五年九月、朝日百科、朝日新聞社)

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