『日本奇僧伝』 宮元 啓一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
千観 – 隠逸の人
今日のところは、「千観」である。日本の浄土教の系譜は、円仁‐空也‐源信‐法然‐親鸞という線に沿って発展したとされている。しかし、その隙間や周辺には、多くの浄土教の推進者がいる。この千観もそのような、ひとりである。それでは、読み始めよう。
日本の浄土教の系譜
日本の浄土教は、以下のように理解されている。
しかし、これに挙げられている人の他に多数の浄土教の推進者がいて、実に興味深い逸話を残している。
千観の生い立ち
千観は、延喜十八年(九一八年)に相模の国の国司の子として生まれた。国司夫婦は、なかなか子が授からなかったため、あらゆる願いを掬いあげてくれる千手観音に熱心にお祈りした。その甲斐あって、妻はある夜、一茎の蓮華を手に入れた夢を見、懐妊した。そして、誕生した男の子に、感謝の念を込めて、千手観音から一文字とり千観と名付けた
千観は、やがて出家し園城寺に入った。そこで仏教を学び学問僧として名声をものにした。千観は、学問僧として漫然と惰性的に仕事をしていたが、心の奥底では、このようなことで出家した甲斐があったと言えるであろうかという疑問が絶えずくすぶっていた。
千観と空也の出逢い
しかし、その何もかもはっきりしない感じが根底から払拭される出会いが訪れた。
空也との出会いである。(抜粋)
千観がある法会の帰り道に、四条河原付近で、たまたま空也上人を見かけた千観は何か得るものがあるのではないかと、わざわざ車から降りて上人に対面する。千観は尋ねた
「そもそも、どのようにいたしましたらならば、来世に救いを得ることができましょうか」(抜粋)
すると、空也は怪訝そうな顔をして、「そのようなことは逆に拙僧の方から、御房のような方にお尋ねしたいことでござりますな。拙僧のような下賤の身のものは、ただ訳も分からず迷い歩くだけである」と言ってすたすたと歩いて行ってしまった。千観も必死になって、袖をつかみさらに質問した。すると上人は
「ともかくも、身を捨ててこその話でござろう(いかにも身を捨ててこそ)」(抜粋)
と一言発し、立ち去ってしまった。
この時、千観はその場で麗々しい装束を脱ぎ車の中に入れ、「拙僧は他のところ行こうと思う」と言い残し、ただ一人箕面というところへ去っていった。
箕面での千観
箕面は昔から、隠遁の士が多く隠れ住んでいたことで知られている。勝尾寺、竜安寺などの古刹もあるが千観は観音院というところで籠居した。
千観はそこで、念仏三昧の生活を送るかたわら、著作に励んだ。著作には以下のようなものがある。
- 『法華三宗相対釈文』:天台大師、嘉祥大師、慈恩大師の法華経の注釈を対照して見やすくしたもの
- 『十願発心記』:大乗仏教の菩薩道に立脚した十の大願とその注釈
- 『阿弥陀讃』:浄土教関係の経典の文句や趣旨を七五調の今様スタイルで歌い上げた和讃本
- 『可守禁八箇条事』:出家生活の戒めを説いた本
金竜寺の開山の逸話
千観は、いつまでも箕面に籠り続けていたわけではなく、里に下り金竜山を開山したという逸話が残っている。
千観は、箕面の山を去り、安満という所に移り、小さな庵を結んだ。そして、そこに籠りきりでいるのではなく、淀川の渡し場に出向き、自ら馬引きになり、無料で荷物を運ぶ労を取った。
千観は、生まれつき心優しく、慈愛に満ちた人であった。どのようなことがあっても、かっとしたり、むっとしたりという、怒りの表情を見せることがなく、いつもにこにこと微笑を絶やさなかった。(抜粋)
そのうち、里人から慕われるようになり、庵には、人柄に魅せられた里人が、集まってくるようになった。そして、里人たちの方で衆議の結果、寄ってたかって立派な寺を建ててしまった。それが金竜寺である。
そして、千観が六十六歳で亡くなると、千観の遺徳を偲ぶ人により千観像がつくられた。この像はそのほほえみから、「笑仏」と呼ばれている。

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