100分de 名著 『教行信証』 釈 徹宗 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第1回 逆境の中で鍛えられた思想(後半)
今日のところは、第1回「逆境の中で鍛えられた思想」の“後半”である。”前半“では、『教行信証』を読み解く上での前提となる浄土仏教の教えや法然、親鸞について書かれていた。ここよりいよいよ『教行信証』の内容に入る。まずは「総序」「教巻」である。それでは読み始めよう。
『教行信証』:「総序」
『教行信証』は、「教巻」「行巻」「信巻」「証巻」「真仏土巻」「化身土巻」の六巻で構成される。
ここでは、まず前書きにあたる「総序」が取り上げられている。この「総序」には、「煩悩を抱えながら迷いの世界を生きる者が、阿弥陀仏の本願(衆生救済するという仏の根本の願い・誓い)によって救われる道」が自身に示されるまでの機縁が語られ、「阿弥陀仏の教えは自力では悟りを得ることができない凡夫を救う「大きな船」」であると述べられている。
続けて、親鸞が自分を教えに導いたきっかけとして、提婆達多と阿闍世をそそのかし頻婆娑羅王を幽閉した「王舎城の悲劇」を上げている。
「王舎城の悲劇」:「総序」
この「王舎城の悲劇」は、親鸞思想に深く関係している事件である。
提婆達多は、釈迦の弟子である。阿闍世は、古代インドのマガダ国の王子である。提婆達多は、釈尊に嫉妬や憎悪の感情を抱き、教団の乗っ取りを画策している。そして、阿闍世は、父の頻婆娑羅王が長生きし自分の王位継承が遅れることを心配している。そのことを知った提婆達多は、「頻婆娑羅王を殺害する手助けをするから、私を教団のトップにしてくれないか」と阿闍世に共謀を持ちかけた。
この提案を受けた阿闍世は、父の頻婆娑羅王を牢屋に幽閉しる。そして、密かに食物を運んでいた母の韋提希王妃も幽閉してしまう。やがて頻婆娑羅王は亡くなり、韋提希は、牢屋の中で息子の悪行を嘆き悲しみ、釈尊に助けを求める。釈尊は韋提希に阿弥陀仏の浄土への往生を説くとともにいくつかの教えを授け、それによって韋提希は救済される。一方、阿闍世は王位に就いたものの、心労がたたり病気になってしまう。最後に阿闍世も釈尊に救いを求める。釈尊は悪人である阿闍世に寄り添い病気を治した。
これが「王舎城の悲劇」と呼ばれる物語である。
通常、私たちの感覚では、提婆達多と阿闍世は悪人と捉えられる。しかし、親鸞は、彼らを「浄土の教えに自分を導いてくれた人たち」と捉えている。そして彼らを、「権化の仁」(人間の姿を借りて現れた仏や菩薩)と言っている。つまり親鸞は、提婆達多や阿闍世を菩薩の化身、王舎城の悲劇を「菩薩たちが自分を浄土の教えに導くために演じたドラマ」と捉えている。つまり、親鸞は、このドラマを、阿弥陀仏の本願力により、悪人や権力者などの分け隔てなく、救われることを表わしていると考えた。
浄土仏教に出遭えたことへの感謝:「総序」
次に「総序」の後半部分が引用されている。
この総序後半では、自分を救ってくれる教えにようやく出遭えたという喜びが表現されている。親鸞は自分の中の闇と向き合い続けた人であったが、そうした悩みや迷いから、悪人や罪人も救済してくれる教えにやっと出遭えたという深い喜びである。
また、この教えがインド、西域や中国を経て日本に住む自分のところに届いたという感謝の気持ちも述べられている。仏教全体のなかでは傍流の浄土仏教が、途中で途切れずに自分へとつながったことに親鸞は敬意を示すとともに深く感謝している。
そして総序の最後に「真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きこと知んぬ」という言葉が出て来る。「教」は、仏の教え、「行」は教えに基づいた実践や修行、「証」は悟りを意味し、これを三法という。この言葉は、浄土の仏道の三法をしっかり受けとめて、仏の深い恵みと徳に気づかされたのだという表明である。
そして親鸞は、この三法に「信」の裏打ちをして四法構造とし、その四法すべてにおいて阿弥陀仏を主語にして独特の思想を展開するのです。
往相回向と還相回向:「教巻」
ここから「教」(仏の教え)について書かれている「教巻」を読み進める。
まず「教巻」のキモは次の二つである。
- 「回向には往相回向と還相回向の二種類がある」
- 「『無量寿経』こそが真実の経である」
往相回向と還相回向について
親鸞は、回向は、往相と還相があるが、往相回向の中に真実の教と行と証があると説いている。この往相回向と還相回向とは
- 往相回向 ・・・ 私たちが浄土に往来し成仏するという往相の回向
- 還相回向 ・・・ 迷いの世界に還って衆生を救うという還相の回向
である。
仏教の回向とは、自分の善業の結果の功徳を他に振り分けることを言う。浄土仏教でも自らの功徳を他者へ振り分けて、ともに往生したいという願う心を「回向心」「回向発願心」という。
しかし、ここでは私自身の功徳や回向という話ではなく、阿弥陀仏の利他力による回向が語られています。ここでの回向の主語は阿弥陀仏なのです。(抜粋)
そのため、ここでの「往相回向」は「阿弥陀仏のはたらきによってすべての人が浄土に往生すること」を意味する。また、「還相回向」は、「浄土に往生して仏となり還相の菩薩となって衆生を救済すること」である。
(この還相回向については、第3回で改めて取り扱われる)
『無量寿経』について
法然は、「浄土三部経」として『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三つを真実の経としていたが(三経一致)、親鸞は真実の教えは『無量寿経』であると言っている。
この「浄土三部経」は、いずれも阿弥陀仏の救済が述べられている。
- 『無量寿経』 … 阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩だったころ、すべての人々を救うために「四十八の誓願」を立て、それを実現して仏となり浄土を建立したストーリー
- 『観無量寿経』 … 王舎城の悲劇から始まり、阿闍世の母・韋提希王妃が、釈尊の説いた瞑想を実践し、最終的には、自分のはからいを捨て、他力にまかせ救済される物語
- 『阿弥陀経』 … 一心不乱に阿弥陀仏を念じれば、阿弥陀仏が臨終の際に現れ、浄土へ導いてくれるという教え
四十八の誓願のうち浄土仏教の核心となる誓い(第十八願)が示された経だからです。(抜粋)
第十八願では、「わたしが仏になったとき、あらゆる人々が、まことの心で信じ喜び、わたしの国に生まれると思って、たとえば十声念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい。ただし五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」と誓われている。この誓願には、「阿弥陀仏はいかなる人も見捨てず、必ず救い取る、阿弥陀仏の本願(他力)を信じ、浄土に生まれることを願う者すべてをすくう」という浄土仏教のすべてが内包されている。
このため、『教行信証』は『無量寿経』論であるという性格を持っていると言える。
かといって親鸞は、『観無量寿経』や『阿弥陀経』を否定しているわけではなく、『観無量寿経』や『阿弥陀経』は、真実の経『無量寿経』に人々を導くための仮の教え、方便の教えとして捉えている(詳しくは、第四回)。
関連図書:親鸞(著)『教行信証』、岩波書店(岩波文庫〉、1957年

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