100分de 名著 『教行信証』 釈 徹宗 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第1回 逆境の中で鍛えられた思想(前半)
第1回の放送を見ました。講師は宗教学者で僧侶の釈徹宗さんです。釈さんは、この放送を見ようと思ったきっかけとなった『ファンタジーに秘められた宗教』では、仏教関係の回で司会もされていました(前回を参照)。
この回は”前半“と”後半“の二回に分けてまとめるとする。今日のところは、『教行信証』を読むために必要な、浄土宗や法然・親鸞などの基礎知識となっている。それでは読み始めよう。
『教行信証』は、「『無量寿経』に解かれている阿弥陀仏の本願を信じて念仏を称えれば誰でも浄土に往生できる」という浄土仏教の教え(法然の思想)を、過去の経論釈からの引用と親鸞自身の解釈によって論証した書物です。(抜粋)
浄土、浄土仏教について
ここでは、まず浄土や浄土仏教について説明がなされている。
浄土とは仏や菩薩のいる清浄な世界のことである。阿弥陀仏は浄土の教主を意味する。仏教では、多重多様な世界が並存して、それぞれの世界に教主がいると考える。私たちの世界もその一つで、釈尊が教主となっている。そのような世界観の中で、阿弥陀仏への帰依と阿弥陀仏による救済を説いたのが浄土仏教である。
浄土仏教は、出家として僧となった人だけでなく、世俗社会に生活する人であっても救済の対象とする、大乗仏教の体系の一つです。(抜粋)
その歴史は、仏教の初期段階にまでさかのぼれ、仏教が広く展開する中で発展する。そして、北魏時代の中国で浄土思想は大きな体系となった。七世紀になり善導が『観無量寿経』論によって独創的な念仏道を打ち立てる。善導は「南無阿弥陀仏」と口に出して唱える「称名念仏」を重視した。この浄土仏教が日本に伝わり中国以上に根を張ることになる。日本での発展には源信の役割が大きく、法然も源信の著作から善導の称名念仏の教えを学んでいる。
法然は、従来の仏教の枠組みではこぼれ落ちる人を救える仏教を求め、この浄土仏教にたどり着いた。このころ多くの人にとって生きることが困難な時代あり、人々の間に「末法思想」も広がっていた。そのような状況で人々は、従来のように出家して修行したり、利他行為を実践する余裕がなかった。そのため
法然は、どのような状況にある者も、能力や資質に関係なく、今・この場でできる実践である称名念仏によって仏教を再構築したのです。(抜粋)
世界には、キリスト教やイスラームなど、大いなる超越的存在(神)を軸とした一神教が多くを占めている。阿弥陀仏に帰依することで救済を説く浄土仏教は、この一神教に近い性格がある。
仏教は、多様性に富んでいて多神教的な教えもあれば一神教的教えもあり、唯心論、唯物論的な考え方も存在している。そしてその中で、浄土仏教が日本に広がったのは、日本人の宗教的メンタリティーにあっていたことが原因の一つであるが、それも法然の存在あってのことである。また法然、親鸞以後の浄土真宗の広がりについては、土着信仰とのつながりもうかがえる。
浄土仏教の始まりと展開をつぶさに観察することで、日本という文化圏の宗教的特徴を見て取ることができると思います。(抜粋)
法然の『選択集』とその批判
興福寺奏状と法然・親鸞の流罪
法然が称名念仏こそが真実の行であると説いた『選択集(選択本願念仏集)』は、仏教界から強い批判を浴びる。法然の浄土仏教が民衆の間に広まることに危機感を覚えた興福寺の僧侶たちは、専修念仏を禁止した文書を提出した。この興福寺奏状を機に法然一門への弾圧が強まり、後鳥羽上皇により念仏停止が命じられる。このとき、法然一門うち四名が死罪、法然と親鸞を含む七名が流罪となった。
この興福寺奏状の中には、「専修念仏には正統な仏教教義の系譜・伝承がない」という批判があり、それも親鸞が『教行信証』を書く要因となった。
明恵の批判・『摧邪輪』
また、『選択集』の批判としては、華厳宗中興の祖である明恵の批判も重要である。明恵は、『摧邪輪』を著し『選択集』を批判した。その論点は、
- 「法然が菩提心は無用としているが、それは間違いである」
- 「聖道門修行して悟りを開く仏道)を群賊悪獣に譬えている」
というものある。(群賊悪獣に関しては第三回を参照)
ここで特に問題なのは、菩提心で明恵は「悟りを求める心を否定しては、そもそも仏教は成り立たない」と指摘した。この明恵の論難に対して親鸞は『教行信証』の中で「菩提心は信心のことだ」としている。
菩提心は起こすものではなく、仏のはたらきによって起きるものである、という他力回向によって解釈しています。(抜粋)
また法然は悟りを開く道を自力と他力の二つに分けて考え、より多くの人を救える行として他力を選んだが、明恵は、仏教の教えは二つに分けられるものではなく、本来一つであると批判している。
「非僧非俗」を選んだ親鸞
法然の弟子の親鸞は、膨大な著作を残した半面、自分についてはほとんど書き残していないため、その生涯ははっきりとしたことは分かっていない。しかし、今日では研究も進み、傍証や手紙、伝承などによりその生涯はある程度たどることができる。
親鸞は、承安三年(一一七三)に下級貴族の子として生まれ、九歳で仏門に入り、約二十年間、比叡山で天台宗の修行をした。彼は比叡山で厳しい修行をしつつしっかりとした文献学も修めている。そして二十九歳で比叡山を下り、京都の六角堂で百日参籠を行う。この時、聖徳太子のお告げを受けたのをきっかけに法然門下にはいる。
当時、親鸞は、法然門下に入って四年目で『選択集』の書写を許される。書写を許された弟子は、幸西、弁長、隆寛、源智、証空だけであり、親鸞は法然に信頼された弟子であったことがわかる。
親鸞は、承元の法難で流罪となり越後の国府へと流された。この時、親鸞は三十五歳。彼は僧籍を剥奪され藤井善信という俗名を与えられたが、自らは、「禿」を名字とし「愚禿」、「愚禿釈親鸞」と名乗った。これは、『涅槃経[ねはんきょう]』に登場する「禿居士」「禿人が由来と考えられ、髪を剃って僧の形をしているが、名ばかりの僧という意味である。そして、刑期を終えた後も僧籍に戻らず、「非僧非俗」のままで生きていくことを決意する。
越後の親鸞と『教行信証』の執筆時期
越後を後にしてからの親鸞は、すぐには京都に戻らなかったと考えらえれている。それは、法然が生前、弟子たちに「自身の死後は一ヵ所に集まらず、別れて暮らすよう」語っていたことが関係している。
親鸞は、常陸国で簡素な草庵(念仏道場)を結び、そこを拠点に約二十年間活動した。当時の北関東は法然の弟子も多く、念仏仲間のネットワークができていた。しかし、親鸞がリーダとした組織ができていたわけではなく、各地域ごとに中心人物がいて、点在するネットワークの形を取っていた。また親鸞は「弟子一人も持たず候」という立場で、師匠と弟子という意識ではなく、すべての門徒は仏の弟子であり、平等であると考えていたようである。
そして、『教行信証』がいつ書き上げられたかについては、諸説あるが、実際には五十歳あたりから書き始め、手元に草稿本を置いて、八十代半ばまで手を入れ続けた、というのが実情である。
六十歳を過ぎた頃、親鸞は住み慣れた北関東を離れて京都に戻る。これは、京都で様々な文献と照合しながら『教行信証』を完成させる必要もあったと考えられる。また、七十五歳あたりから八十六歳ぐらいまで旺盛な著述活動をしたのも親鸞の特徴である。高齢になっても、住居が火事になったり、息子の善鸞に問題があったり苦労があったが、九十歳で念仏を称えながら静かに息を引き取った。
関連図書:親鸞(著)『教行信証』、岩波書店(岩波文庫〉、1957年


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