馮道 / 李煜 — 唐・五代 (その3)
井波 律子 『奇人と異才の中国史』より

Reading Journal 2nd

『奇人と異才の中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

II 統一王朝の興亡 1 政治と詩の世界 — 唐・五代(その3)

今日のところは、「1 政治と詩の世界– 唐・五代」の“その3”である。ここでは「馮道」「李煜」をまとめることとする。それでは読み始めよう。

馮道(政治家)

三百年つづいた唐王朝が滅亡すると、中国は南北に分かれ、北中国は、後梁こうりょう後唐こうとう後晋こうしん後漢こうかん後周こうしゅうの五つの王朝が興亡し、南中国は、十国が乱立した五代十国の乱世となる。

馮道ふうどうは、五王朝(後唐、後晋、遼、後漢、後周)、十一人の皇帝に仕え二十年以上宰相のポストにあった政治家である。

中小地主の家に生まれた馮道は、生来、温厚かつ地道な性格で生涯その性格は変わらなかった。彼は後唐の二代目の明宋めいそうに抜擢されその宰相となった。そして、明宋の死後、息子が後継皇帝となるが、これを不満とする養子の李従珂りじゅうかが挙兵し、後継皇帝が逃亡すると、それに従わずに李従珂に勧進文かんじんぶんを捧げて帝位につくように勧めた。これに同僚が反対すると「事まさに実をつとむべし(何事も現実第一だ)」と言ってのける。そして、その後も次々と類似した状況に遭遇するが、そのたびに同じように現実主義てきな行動をとり、交替する王朝において、重用され政治の中枢に身を置き続けた

古来、こうした馮道の生き方を無節操にして破廉恥だと非難する向きも多い。しかし、軍事力を持つ者が次々に主導権を握った五代の乱世において、行政担当の文官である馮道にしてみれば、入れかわり立ちかわり出現する権力者にいちいち忠義だてをしていては、とても身がもたない。(抜粋)

馮道は自叙伝長楽老自叙ちょうらくろうじじょに、始終「家に孝、国に忠」であったと書いた。著者は「君に忠」ではなく「国に忠」というところがポイントであると指摘している。後年、明末の思想家李卓吾りたくごは、このように「君」よりも「国」を重視した馮道の生き方を高く評価した。

乱世の宰相馮道は、七十三歳でこの世をさる。そして、その六年後に統一王朝そうが成立する。

李煜(皇帝)

李煜りいくは、五代十国時代の十国の一つ、南唐なんとうの三代目で最後の君主であり李後主りこうしゅとよばれる。彼が君主の座についた前年に北部中国では、北宋の初代皇帝太祖たいそが華北を統一した。北宋王朝が江南平定を目指し圧迫する中、李煜は、亡国寸前までの十四年間をとびきり優雅で豪華な生活を送った

彼は、教養が高い趣味人で、晩唐ばんとうから盛んになったツーの名手だった。このような、六朝りくちょう時代から受け継いだ、高度に洗練された文化が花開いた李煜の王朝も、北宋の猛攻を受けついに陥落する。李煜は、二年間幽閉された後に亡くなる。ときに四十二歳であった。

幽閉時代に書かれた李煜の詞は、それまでの歓楽の日々に書かれたものと打って変り、亡国の悲しみや望郷の思いが凝結した絶唱となった。李煜によって成熟度を高めた詞は、その後宋代を通じて文学の主要ジャンルとなった。

亡国の悲劇が詞人しじん 李煜の飛躍のバネになったという、この皮肉なめぐりあわせこそ、しんの歴史家張翼ちょうよくの言葉を借りるならば、「国家の不幸は詩家の幸い」を地でゆくものだったといえよう。(抜粋)

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