奇跡は本当に起きたのか:曽野綾子 –– 善き神はなぜ残酷な世界を創ったのか(その2)
岡本 亮輔 『キリスト教入門の系譜』より

Reading Journal 2nd

『キリスト教入門の系譜』 岡本 亮輔 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

第6章 善き神はなぜ残酷な世界を創ったのか ―― 苦難への彼女たちの応答(その2)

今日のところは「第6章 善き神はなぜ残酷な世界を創ったのか」の“その2”である。“その1”の三浦綾子に続き、“その2”では、作家の曽野綾子が取り上げられている。

三浦と同じく曽野も「全能の神がなぜ悪を許容するのか」という問いに向き合った一人である。」それでは、読み始めよう。

奇跡は本当に起きたのか — 曽野綾子の諦めと回生

曽野綾子と三浦朱門

曽野綾子の夫、三浦朱門しゅもんも曽野と同じくカトリックの信者で作家である。彼は遠藤周作とも親しく共著『キリシタン時代の知識人 — 背教と殉教』も著している。三浦は同人誌『新思潮』の中心メンバーで曽野が二〇歳で参加した時に知り合い、二三歳で結婚した。

曽野は、結婚の翌年『遠来の客たち』で芥川賞候補となり文壇にデビューする。夫の三浦朱門、遠藤周作、吉行淳之介と共に「第三の新人」と称され、多くのベストセラーを送り出した。

三浦・曽野夫婦の活動は著述に留まらず、大学で教え、政府委員として活躍し、文化功労者となるなど、作家の枠を超えた活動を展開した。

曽野綾子の出発

曽野の実家は田園調布にあり、父は実業家だった。幼稚園から大学までカトリックの聖心女学院で学び修道女に囲まれて育った。はたから見れば「お嬢さま」である。しかし、家庭内では、父は暴力をふるい、夫婦喧嘩が絶えず、さらに病気や戦争の恐怖にさらされた。

そんななか曽野は、一七歳で受洗した。信仰に目覚めたというよりも、戦後の混乱の中、修道上たちの生活に憧れたからである。ただし、受洗した後も、曽野は投げやりであった。転機は大学生の時であった。小説を同人誌に書き続けていたものの手応えがなかったため、すっかり諦めて普通の女性として生きようと決心した。しかし、買い物に出たときに、ついでに寄った本屋で、『文学界』という知らない雑誌に自分のことを好意的に論じられているのを発見する。

神がもう少し小説を書いてみろと命じているのではないかと感じ、数時間前の決心を翻し、今度は書き続けることを心に誓った。(抜粋)

そして、それまで参加していた同人誌だけで満足できず、『新思潮』に加わり、三浦朱門とも出会う。そしてその後エッセイ集『誰のために愛するか』を出版する。

『誰のために愛するか』:その人のために死ねるか

『誰のために愛するか』で曽野は、愛とは何かという問いに「その人のために死ねるかどうか」だと言い切る。曽野自身の体験や周囲のエピソードを織り交ぜた同書は、大ベストセラーとなった。しかし、その人のために死ねないなら、愛してないということになり、それができる人はごく僅かしかいない。そして、「死ぬだけが愛ではない」という反論や曽野が情死や心中を勧めているという誤解まで生まれた。

しかし、曽野は、「愛していない人をも愛する方法がある」と説いている。そのテーマを掘り下げるため、ポーランドの修道士マキシミリア・マリア・コルベの足取りをたどるためポーランドに飛んだ。

修道士コルベの生涯

修道士マキシミリア・マリア・コルベは、ポーランドの敬虔なカトリックの家庭で育ち、一〇代で修道会に加わった。子供のコルベは、マリアの出現を体験している。そのとき、マリアは、白と赤の二つの冠を見せ、白は純潔、赤は殉教の印だと告げた。コルベは両方欲しいと答える。そして、いつか聖母のために殉教すると心に誓った。

コルベは、六人の同志と共に「無原罪の聖母の騎士会」を結成し、月刊誌『聖母の騎士』を創刊した。静寂を重んじる修道院での活動に反発を招いたが、資金難のときには、どういうわけか聖母の祭壇に必要なだけの金が入った封筒が置かれていたり、自前の印刷機も思わぬ寄付で購入できたりして。

そして、聖母の騎士の同志たちと修道院を建てる。『聖母の騎士』は、数千部から始まり最大で七〇万部発行するまでになり、修道院のメンバーも七〇〇人にまで膨れ上がる。また、コルベは長崎にも上陸している。彼は日本語版『聖母の騎士』を創刊し、それを街頭で配る活動をしている。

そして、ポーランドに帰国すると、第二次世界大戦がはじまった。コルベはナチズムを批判した罪で逮捕され、アウシュビッツ強制収容所に送られた。アウシュビッツでは、脱走者が出ると、報復として同じ棟の収容者一〇名が餓死刑に処された。そしてコルベたちの棟から脱走者が出る。脱走者は捜索しても見つからず、一〇人の処刑者が指名された。

その中にポーランド軍のフランツィシェク・ガロウィニチェック軍曹がいた。彼は妻子がいる身で選ばれたことを嘆いた。すると、コルベは自分は修道士であるため妻子もいない、と身代わりを申し出る。コルベたち一〇人は、餓死室に水も食料も与えられず放り込まれる。結核を患うコルベがいち早く死ぬと思われたが、仲間を励ましながら二週間過ぎても生きていた。結局、毒物注射が行われた。

享年四七歳。翌日、コルベの遺体は焼かれたが、その日は奇くしくも聖母の被昇天の祝日、八月一五日であった。(抜粋)

曽野のコルベを巡る旅

一九七一年九月、曽野はポーランドに向かった。翌年には、ローマでコルベを聖人の一つ手前の福者とする列福式が控えていた。旅の目的は、コルベの足跡をたどり、彼にまつわる奇跡の真偽を自分の目で確かめることにあった。(抜粋)

列福式をまえに「コルベに祈ったことで重篤な病から回復した」というような奇跡譚が流布していたが、曽野は信じがたかった。彼女は、奇跡に文学的な関心はあっても科学的にはあり得ないと感じていた。

曽野は、「愛するとはその人のために死ぬことである」と定義し、キリストこそ最も完璧に愛を貫いた人であるとした。しかし彼女自身が確固たる信仰を持ち得ていなかった。コルベは、究極の愛を実践して処刑された、死後も奇跡をもたらしたとされる。曽野にとって、コルベは是非とも吟味しておきたい人物だった。

コルベが過ごした修道院を巡り、アウシュビッツを訪ねた。そしてコルベが助けたガヨウィニチェク元軍曹に会いに行った。曽野は、元軍曹が子供や孫に囲まれている姿を見たいと思っていたが、元軍曹は妻と二人暮らしだった。二人の子どもは、戦争末期にソ連の空襲で一〇代の若さで命を落としたのである。

曽野は、コルベは無意味に死んだのではないかと思う。たった一つの家庭すら救えず、コルベは真夏の収容所ではぶり殺された --- 要するに、コルベは「趣味」で死んだのである。(抜粋)

その後、曽野はイタリアで二件の奇跡的治癒の調査をした。粘り強く取材し、医師にも見解を求めたが、驚異的治癒ではあるが、奇跡と呼ぶかどうかは、結局その人次第という結論だった。

そして、ローマでの列福式に参加して日本に帰った。日本に帰国後もコルベを直接知る人を訪ね歩いた。そして出会ったのが、ミエチスラオ・ミロハナ司祭であった。彼は二二歳でコルベと共に来日し、その後も長崎で伝道を続けていた。

ミロハナの話は曽野のコルベ像を一変させた。彼によれば、コルベは聖母という被造物の最高傑作を通じて神に至ろうとしていた。生前のコルベは、自分の望みや計画を一切手放して聖母にしたがい、聖母の道具となり、聖母の計画を邪魔してはならないと語っていたという --- 曽野は震え上がった。(抜粋)

曽野はコルベの聖母崇敬を女性に対する愛のように思っていたが、それは違っていた。彼は一切の情感を排して、理性的な聖母崇敬をつきつめ、すべてを聖母に捧げていた。そのような愛だからこそ、コルベは聖母に殉じるため、他人の身代わりとなり、無意味に思える死を選んだのである。そして曽野は、そこに究極の愛を見た。

曽野綾子の『奇跡』とその後の活躍

このコルベを巡る旅と思索は『奇跡』にまとめられている。この作品は奇跡を信じることの難しさや、現代的な意味を探った作品である。曽野の旅から10年後、コルベは聖人となった。

そして、曽野自身にも奇跡が訪れた。曽野は、生まれつき強度の近視であったが、五〇を目前に視力がさらに悪化し、本も読めない状態となった。そして、作家生活の終焉を覚悟しつつ、最新の手術に踏み切る。

結果は驚くほど良好だった。裸眼で眺めた世界は、あまりに美しく、色彩が怒涛どとうのように押し寄せた。予想外の回復ぶりはメディアでも奇跡的だと報道されたが、曽野は、かえって恐ろしくなった。視力の回復のために自分は何も差し出していない。ただ与えられた。なぜ神はこのような無償の贈り物を授けたのか ---- 神の沈黙が怖かった(『贈られた眼の記憶』)。(抜粋)

曽野は、視力を使い切るのが神への感謝だと思い、以後活発に動くようになる。手術より二年後には、サハラ砂漠縦断の旅にでた。キリスト教の原風景の砂漠を自らの目で確かめる旅であった。そして翌年には、盲目や弱視の人々を集めた聖地巡礼を始めた。イスラエルやヨーロッパの聖地を訪れるこの旅は二〇年以上つづいた。また、海外邦人宣教師活動援助後援会の設立をし、さらには日本財団長まで引き受けた。

その後も曽野は、他者のために自分を捧げるという、一見損に見える行為こそが愛だと信じて行動した。ポーランドで味わった絶望、思いがけぬ視力の回復、そして聖地巡礼や奉仕活動の広がり --- その背後には、見知らぬ人のために命を差し出したコルベの影が、長く伸びていたのだろう。(抜粋)

関連図書:
曽野綾子(著)『誰のために愛するか』、文芸春秋(文春文庫)1995年
曽野綾子(著)『奇蹟』、文藝春秋(文春文庫)、1977年

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