『奇人と異才の中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
III 近代への跳躍 1 王朝交替期を行きぬく— 明末清初 (その1)
今日からIII 近代への跳躍 に入る。まずは「1 王朝交替期を行きぬく— 明末清初」である。ここでは、馮夢龍、張岱、柳敬亭、毛晋、余懐、柳如是の6人が取り上げられたいる。明末清初は、2回に分けてまとめるとする。それでは読み始めよう。
馮夢龍(文章家・編集者)
馮夢龍あざな猶龍は、白話(口語体)で書かれた短編小説集『三言』の編者である。
この「三言」は、『古今小説(喩世明言)』、『警世通言』、『醒世恒言』からなり、各四十篇、つごう百ニ十篇の短編小説を収録している。
明末は出版業が盛んとなり馮夢龍は、科挙の受援参考書を編纂・刊行したり、『水滸伝』の豪華本を刊行するなど敏腕編集者として活躍した。
彼は、江南の大都市蘇州の知識人階級であり、科挙合格を目指したがどうしても合格できず、五十七歳のとき別ルートで官吏資格を得るまで、約四十年にわたり受験を繰り返した。そして五十近くまで、編集者や家庭教師をして生計を立てた。自科挙の受験参考書として有名になった『麟経指月』を書いたのも家庭教師時代である。
十六世紀から十七世紀初めの明末は、政治・経済・文化など様々な価値観が見直された時代で、文学においても、それまで通俗的と蔑視されてきた白話小説や戯曲への評価が高まった。その風潮のなか馮夢龍は、それまでなかったプロの編集者として活躍した。
彼は官吏資格を得たあと、六十一歳から五年間福建省の知事として働き、その後もまた編集活動に没頭する。しかし、明が滅亡し清軍が江南に進撃を開始した際に反清運動に加わった。その死の状況については諸説ありその詳細は分からない。
張岱(文章家)
張岱あざな宋子は、明末の文人である。彼は三代続いた進士の家に生まれた。張家には、莫大な資産があり、三代にわたり莫大な蔵書を有するなど学問を重視する家風があった。しかし、張岱の父は科挙に落第しつづけ、神仙術に凝るなど浮世離れした生活をした。そして、張岱自身も科挙を受検せず、遊び仲間と共に物見遊山に明け暮れた。しかし彼は大変な読書家であり、書籍収集に情熱を傾ける蔵書家であった。そして、詩文、随筆、戯曲などの著作を行った。明一代の歴史をつづった『石匱書』 を執筆するなど、在野の超一流の文人であった。
明末は、政治は腐敗し回復不可能は末期状態に陥っていた。このような状況で、もっと自由に個人の生を楽しもうとした、張岱のような文人が続出した。
しかし、張岱の人生は、明が農民反乱「流賊」に滅ぼされ、満州族の清王朝が全土を支配するに至り、暗転した。彼は、無一文になり貧乏のどん底に落ちた。親しい友人の中には、清に抵抗し処刑されたり、みずから命を絶ったものも多かったが、彼は生き続ける道を選んだ。貧しい生活の中『石匱書』を完成させ、『陶庵夢憶』 などの作品を残した。
一説によれば、張岱は康熙二十八年(一六八九)、九十三歳まで生きたとされる。だとすれば、なんと清の支配下で半世紀近く、明の「頑民(頑固な遺民)」として生きぬいたことになる。なんともあっぱれというしかない。(抜粋)
柳敬亭(講釈師)
柳敬亭は、明末清初の天才的な説書芸人(講釈師)である。彼は十五、六のころ、地方ボスを殺害し、巡撫(地方軍事長官)の李三才の情状酌量で助かったことがあった。この李三才は、反宦官派知識人の政治結社「東林党」の重要メンバーであったため柳敬亭は、生涯を通じて東林党とその系統を受け継ぐ「復社」のメンバーと深く共感し連携した。
減刑されたのち柳敬亭は、講釈師となり江南各地を遍歴し人気絶頂の講釈師となった。その後、彼は明軍の将軍左良玉の幕僚となる。これは、反乱軍になりかねない左良玉を牽制するためで、左良玉と親しい復社からの依頼であったようである。明が滅亡し、清が全土制圧を目指して江南に進軍を開始したとき、南京で福王を中心にした亡命政府が出来た。この亡命政府の中心の宦官は反宦官の左良玉を排除しようとした。左良玉はこらえきれず挙兵したが、南京に向かう途中に亡くなり反乱軍は撃破されてしまう。
福王の亡命政府も清軍に撃破される。このとき柳敬亭は、南京に潜伏していた。その後、清が全土を支配する。柳敬亭は、また講釈師となり八十歳で死ぬまで約二十年間、江南各地を渡り歩いた。

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