『キリスト教入門の系譜』 岡本 亮輔 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第1章 この宗教文学がすごい!―― 煩悶青年たちの爆発的ベストセラー(前半)
今日から「第1章 この宗教文学がすごい!」に入る。ここでは、大正時代に大ベストセラーとなった宗教文学、江原小弥太の『新約』と賀川豊彦の『死線を越えて』が取り上げられている。この日本社会が大きく揺れ動いた時代、人生に行きづまり、悩んだ煩悶青年が社会現象となっていた。そしてこの二つの宗教文学は、煩悶青年の間で大ベストセラーとなった。
第1章は、”前半“で江原小弥太を”後半“で賀川豊彦についてまとめるとする。それでは読み始めよう。
反逆のベストセラー作家ができるまで — 江原小弥太の彷徨
大正時代の後半、宗教文学と呼ばれる新しい潮流が姿を現した。(抜粋)
このころ日本社会は、大きな変動があり揺れ動いた時代であった。その中で生まれた宗教文学は、人生に行き詰り葛藤する者が、信仰という名の光を追い求めた魂の記録である。
第1章で取り上げる江原小弥太と賀川豊彦は、ともに己の人生からつかみ取った信念を聖書とキリストにぶつけて動乱時代の悩める煩悶青年たちの心を鷲摑みにした。
煩悶成年の時代
一九〇三年五月、第一高等学校の新入生だった藤村操は、華厳の滝に身を投げ自ら命を絶った。滝のそばの木の幹に遺書「巌頭之感」が墨で記されていた。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。(抜粋)
この事件は当時の若者に衝撃を与え、後追い自殺者が多く出るなど一大センセーションとなった。この悩める青年たちは煩悶青年と呼ばれ時代の象徴となっている。
この煩悶青年は、当時の社会に多大な影響を与えたようである。そのため仏教について書かれている『日本仏教再入門』にも詳しい。
この煩悶青年たちの受け皿となりキリスト教では、内村鑑三、蛯名弾正、仏教では、清沢らの浩々洞、近角常観の求道学舎などに人が集まった。さらに田中智学や高山樗牛の著作も青年たちに多大な影響を与えたとのことである。詳しくは、ココあたりを読んでね(つくジー)
キリスト教に目覚める江原小弥太
このような、煩悶青年の一人として、柏崎の小学校で代用教員をしていた江原小弥太がいた。彼は、新潟で開催される内村鑑三や仏教思想家の暁烏敏などの講演会に足を運んでいた。そして、二二歳の秋に、上京し司法官宅の書生となり、夜間、東京物理学校(現・東京理科大学)に通った。彼が理系を選んだのは、数理科学を学んで論理的思考を鍛え、哲学と宗教を総合するという大志を抱いていたためだった。彼は当時、内村とともに教会を批判していた中田重治が設立した中央福音伝道館に入った。
多情多感な彼は、恋愛沙汰を起こし出奔したり、船員になったり、と居所が定まらなかった。そして、郷里に戻り新聞記者となった。江原小弥太、二四歳の時である。
『新約』の刊行まで
前節では、江原が上京しクリスチャンとなった後、故郷で新聞記者になったいきさつが書かれていた。ここでは、その出生から『新約』の出版までの人生を追っている。
小弥太は、江原家の実子ではなく、生家は、生薬商の小泉家である。小弥太の母に母乳が出なかったため幼い小弥太は江原家に里子に出された。江原家は、小泉家とは違い貧しい士族の家庭で、文芸や美術などと縁が薄かった。小弥太は養父との折り合いも悪く学費の援助も得られず、ことあるごとに衝突した。
前節のように一旦は上京した江原は、地元に帰り新聞記者となった。しかしクリスチャンとして女・酒・煙草を絶ち、社会のあらゆるものを批判したため、社内でも疎まれる存在となっていった。
そんな時、江原は柏崎教会の牧師・上田義雄の妻の妹と結婚する。そして上田牧師が朝鮮にわたると、社内の人間関係も悪化していたため、新聞社を辞めて、上田牧師を追って渡韓し、釜山日報の新聞記者となる。その後妻が結核で病死する。そして友人の妹を妻にしたいと頼むが断られる。
破れかぶれになりまた枕崎に戻り越後タイムズの記者に戻るが、芸者の八重子と結婚後、また、三五歳で上京し神田神保町に書店を構えるがまったくもうからない。
そんな時、イエスを題材に自分の半生を書くことを思い立ち、店番の合間に執筆を重ねた。やがて赤字の商売に嫌気がさし、書店を人に譲って枕崎へ戻り、友人宅で執筆をつづけた。(抜粋)
そうして原稿用紙三五〇〇枚に及ぶ『新約』(上・中・下)が完成した。江原は四〇歳になっていた。
『新約』がベストセラーとなった背景
『新約』は、爆発的なヒットとなった。
このヒットの背景には、当時の自然主義の潮流があった。自然主義は、人間を美化せず、生理や官能を直視して描く文学手法で、田山花袋の『蒲団』(一九〇八年)や島崎藤村の『新生』(一九一九年)などがその代表である。
そして一九二〇年代に自然主義の手法を取り入れた宗教文学が現れる。この宗教文学には、江原の『新約』の他、倉田百三の『出家とその弟子』、後半で取り扱う賀川豊彦の『死線を越えて』がある。
こうした時代の空気と文学潮流のもと、江原も『新約』を世に問うた。特に反逆者ユダの人間性に踏み込み、自分の四〇年の半生を注ぎ込んだ。したがって、もし『新約』が失敗なら、江原の人生は無意味であり、生まれてこない方が幸せだったということになる --- 追い詰められた中年、覚悟の一冊であった。(抜粋)
キリスト教を突き抜けた男 — 江原小弥太の彷徨
『新約』『復活』『旧約』
『新約』は、ユダを中心に描いた物語である。このユダには江原の人生が色濃く影を落としている。その後、ユダとイエスは葛藤の中、その裏切りと死とを迎える。
この『新約』は、半年もせずに七万部を売り上げ、江原は勢いのまま『復活』と『旧約』を刊行した。『復活』は、『新約』の続編でイエスの処刑後が描かれている。この『復活』のまえがきで、江原は、ユダこそイエスの正当な後継者であると述べている。
・・・・現在まで基督教なるものは使徒ペテロやパウロの設立した宗教であって(中略)耶蘇(イエスのこと)の正統を嗣いだものとは思われないのです。むしろ耶蘇の正統は反逆者ユダの中に在るものと確信しています。そこで私は二千年の今日、東洋の日本においてユダを復活させるのであります。この意味においても「復活」の名をつけたのです。(抜粋)
この三冊を書いたのち、江原は宗教小説を書かずに、科学風の啓蒙書や人生論の執筆をするようになる。そして、若いころの志である、自然科学の知見を動員して、不可解な世界と人間の秘密を解き明かそうとする。その手始めに『心霊学』を刊行する。
その後の江原の著作について
江原は、アインシュタインの来日で話題となった相対論を踏まえて『新自然科学と生活革命』を刊行した。この本は、相対性理論の解説に多くの紙幅をしめるが、その理解は大変怪しい。しかしここで江原は、すべては相対的あり絶対的な基準などない、「全ては相対的だ」ということだけは絶対だ、と言っている。
さらに『現実の宗教 — 私が発見し救はれた道』や晩年の『すべて吾によし』では、親鸞への共感も語っている。
江原は、人の人生などたかだか五〇年である。しかし個々の生死を越えた人類全体とつながっていると思えば、惨めな生い立ちや失恋も、全てが自分にとって良いことに変わると訴えている。
江原の行きついたところ
江原と内村鑑三は、何もかも反対のように見えるが、江原はキリスト教や無教会主義にも現実的な理解を持っていたと著者は指摘している。
内村が理知的な聖書研究によって無教会主義に至ったとすれば、江原は辛い人生経験が育んだ文学的想像力によって教会を離脱し、無教会的な境地へと流れついたのではないか。(抜粋)
江原は『新約』の出版から二〇年後に作家活動をほぼ終えている。このなかで『新約』以上のヒットにも恵まれなかった。戦後の短い寄稿で江原は「キリスト教や仏教を突き抜けて信仰から出した」と述べている。そして「死ねばそれっきりであり、生きている間だけは幸せでいたい」と書いている。
関連図書:
賀川豊彦(著)『死線を越えて』、角川書店(角川文庫)、1960年
倉田百三(著)『出家とその弟子』、岩波書店(岩波文庫)、20030年


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