『ファンタジーに秘められた宗教』 中村 圭志 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第②回 『蜘蛛の糸』 悪人とはだれか(後半)
今日のところは第②回 「『蜘蛛の糸』 悪人とはだれか」の”後半“である。”前半“では、この『蜘蛛の糸』をファンタジーとして取り扱うことについて著者の意見が述べられた。そして、この『蜘蛛の糸』の原話であるケーラスの『蜘蛛の巣』の概略が述べられそれが仏教説話であることが示された。
今日のところ”後半“では、芥川の物語をケーラスの物語と比べそれが仏教説話ではなく、人の「浅ましさ」を描く心理劇であることが示される。しかし、では『蜘蛛の糸』が宗教的でないかと言うとそうではく、ここでは親鸞の『歎異抄』やキリスト教の教えにも共鳴する宗教的なファンタジーであることが解説される。それでは読み始めよう。
心理劇である芥川の『蜘蛛の糸』
”前回”書かれていたようにケーラスの話は、仏教の教理に忠実な仏教説話である。
これは明らかに芥川のビジョンとは異なるものです。彼はただひたすら一本の蜘蛛の糸の話をするだけです。つまり、一人の人間の心だけに注目しているということです。(抜粋)
芥川の話は、「信仰心が無いから失敗する」「信仰心があれば成功する」のような二分法とは無縁の心理劇となっている。
『蜘蛛の糸』の独創性(『杜子春』との比較)
ここで著者は、『蜘蛛の糸』の独創性を知るために、構造が似ている芥川の『杜子春』と比較している。
『杜子春』は、杜子春が仙人になる資質があるかを仙人が試す話である。杜子春はどんなに苛酷なビジョンを見せられても声をあげてはならないと、仙人から命じられる。そして、どんな幻を見ても、じっと耐えていたが、畜生道に落ちた父母が虐待される姿を見て、さらに母が息子を気づかって慈愛のある言葉をかけるのを耳にしてついに声をあげてしまう。杜子春は仙人になる道を閉ざされたが、仙人もそれでよしとする。
そもそも杜子春が仙人になろうと思ったのは、冷酷な世間の風潮に嫌気がさしたからである。しかし、彼の心は完全に閉ざされていないことが、母の言葉を聞いたときに明らかになったのである。 『杜子春』は、人と人の絆やつながりが話のポイントとなっている。
これに対して、芥川の『蜘蛛の糸』は、主人公の心が絆やつながりに目覚めるところを描くものではありません。あくまで、心に根付く自己中心性に焦点を当てるものです。
それがこの寓話の本質なのです。(抜粋)
『蜘蛛の糸』が暗示する人間の本性
ここでは、芥川がなぜこのような「意地悪」な物語を書いたか、について著者の見解を述べている。
普通だれでも、多少の悪は行うが、しかし自分は「善人」の部類であると認識している。人を「悪人」と「善人」に分けると自分は「善人」の部類になると思っている。
しかし、この「究極の選択」を前にした犍陀多の話を読んで、次のように思うのではないだろうか?
「自分と犍陀多の違いは、善人と悪人の違いではない。犍陀多は自己の心を嫌な形で試されたが、自分は試されることなく平穏に暮らしている。それだけの違いではないだろうか」(抜粋)
人生には、二つの見方があり
- 善人と悪人、成功者と失敗者の間に線を引いて、何もなければ後者にならないという見方
- 善人になるも悪人になるも、成功者になるも失敗者になるも、紙一重であるという見方
この見方の内、前者の理解は容易であるが、後者の理解は心理的に抵抗がある。しかし、後者の見方は様々な人々に慈愛の目を向けたものである。
このような両方の見方が常にあり、後者の見方も早いうちに遭遇するのも決して悪いことでないと、『赤い鳥』の編集者も考えたのだろう、と著者は言っている。
この話は、犍陀多が蜘蛛の糸にしがみついてきた人たちを「罪人」と呼び、自分だけが救済の「有資格者」であると考えている。
こうした描写は、私たちが他人の転落に関して自業自得として片付けようとする一方で、自分もまた紙一重のところにいることを、きれいに忘れているという事実を伝えているのではないでしょうか。(抜粋)
『蜘蛛の糸』の宗教性
ここまで、『蜘蛛の糸』は、仏教の説話ではなく、文学としての心理劇であると説明されてきた。
しかし、それでもなお『蜘蛛の糸』は宗教的な作品だと言えます。(抜粋)
と著者は言っている。それは、仏教やキリスト教の洞察と共振するからである。
親鸞の悪人正機説との共振
親鸞の言葉を弟子の唯円が記録した『歎異抄』 という書物がある。著者はそこから次の話をもってくる。
ある時、親鸞が唯円に「千人の人を殺してくれないか」と言った。唯円は驚いて「無理です」と答える。すると親鸞は、
わがこころのよくてころさぬにあたらず。また害せじとおもふとも、百人千人ころすこともあるべし」(「歎異抄」第十三条)(抜粋)
と答えた。つまり、君が殺さないのは「縁」がないからで、心が善だからではない。逆に人に害を与えないと思っていても、百人千人殺してしまうことがあるということである。この話は、自分と犍陀多の違いは紙一重だということが納得できれば同じように納得できる。
もう一つ『歎異抄』にある親鸞の言葉に
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(第三条)(抜粋)
がある。これは善人でさえ救済される(往生できる)。まして悪人が救済されないはずはない、という意味である。これは逆に考えるのが普通である。
著者は、この言葉の解釈をしていくと長くなるため、ここでは『蜘蛛の糸』と関連する部分にのみ、触れることにするとしている。
善人と悪人との違いは紙一重であるということは、自分が善人であると考えている私たちは、ただ自分の善人性を疑わずに生きていける幸せな境遇の人に過ぎない。そんな善人でも救われるならば悪人、つまり自分の心の悪をさらけ出さずにいられないような修羅場を体験してきた人こそ救済の対象であってしかるべきである。
『蜘蛛の糸』の話は、このような親鸞の言葉と共振しているのである。
キリスト教の教えとの共振
この『蜘蛛の糸』は、キリスト教の教えにも共振する。
新約聖書には、「私たちを試みに遭わせず 悪からお救いください」(「マタイによる福音書」6章13)という祈りの言葉がある。ポイントは試み(誘惑)に勝たせてくれ、ではなく、試みに遭わせないでくれ、の部分である。
また、キリストは、姦淫の罪を犯した女を石打の刑で罰しようとしている者たちに、「あなたがたの中で罪を犯したことがない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(「ヨハネによる福音書」8章7)と言い、自ら罪を犯したことが無いか精査することを促している。
これらの聖書の言葉には、『蜘蛛の糸』の読書体験 --- 自分は試練も誘惑も免がれただけで、犍陀多と大差ないのかもしれないと気づく省察の体験 --- と共鳴するところがあると思いませんか。(抜粋)
関連図書:芥川龍之介(著)『蜘蛛の糸・杜子春』新潮社(新潮文庫)、1968年

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