『ファンタジーに秘められた宗教』 中村 圭志 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第②回 『蜘蛛の糸』 悪人とはだれか(前半)
「NHKこころの時代」の第②回 「『蜘蛛の糸』悪人とはだれか」を見ました。前回の放送では、クリスチャンの若松英輔に司会で進められたが、今回は、仏教説話っぽい話となっているためか、司会は、宗教学者で僧侶の釈徹宗、そして著者の中村圭志とゲストとして女優で作家の中江有里の三人の対話形式となっていた。
第②回は、”前半“と”後半“の2回に分けてまとめるとする。それでは読み始めよう。
『蜘蛛の糸』はファンタジーか
『蜘蛛の糸』は、児童向けの童話雑誌『赤い鳥』の創刊号(一九一八)に掲載された芥川龍之介の童話である。この物語は、救いようがない暗い話であり、さらにお釈迦様が登場し地獄や極楽が描かれている。そのため、ファンタジーでなく仏教説話ではないかという意見がある。
はじめに著者は、この点について私見を述べている。
- これは暗い話であるが、そもそもファンタジーと呼ばれる文学がすべて明るい物語ではない。
- 仏教説はではないかという意見もあるが、この話は仏教の道具立てを使用しているが、仏教の教えを説こうとするものでなく、芥川独自の心理的・倫理的な寓話である。
この②については、これから少しずつ明らかにされる。
また、『蜘蛛の糸』は、同じく芥川の童話の『杜子春』や『魔術』と構造が似ていて、いずれも主人公が自らの心を厳しく試され、失敗するところをクライマックスとしている。『杜子春』や『魔術』は、普通ファンタジーの範疇に入るだろうから、この『蜘蛛の糸』もファンタジーのバリエーションの一つと考えることにした。もっとも、『蜘蛛の糸』がもっとも宗教性が高いことは間違いない。
物語のあらすじ
① 極楽の場面
蓮池のまわりを散歩しているお釈迦様が、偶然、地獄にいる悪人の犍陀多を見つけ、彼が道端の蜘蛛を助けたという善行があることを思い出し、蜘蛛の巣の糸を手に取って、地獄まで下す。
② 地獄の場面
犍陀多が蜘蛛の糸を見つけ、のぼりはじめる。しばらくすると他の亡者ものぼっていることに気がつく。糸が切れることを恐れて
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちはいったい誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」(抜粋)
と叫ぶ。すると糸がぷつりと切れ。犍陀多はクルクル回りながら落ちて行ってしまう。
③ 再び極楽の場面
犍陀多の転落をようすを見ていたお釈迦様が、悲しいかをしてまた歩きはじめる。しかし、極楽の蓮池はこんなことなど頓着せず、極楽はあくまで美しくかぐわしいままである。
物語のポイント、われわれの中の「浅ましさ」
この物語のポイントは、明らかに犍陀多が「この糸はおれのものだ!」と叫び、蜘蛛の糸がぷつりと切れるところである。
読者は犍陀多に感情移入して読んでいるため、犍陀多同様に自己中心性と他者への無慈悲という「浅ましさ」があることを確認する。
著者は、この犍陀多の心の内を探るために、タイタニック号を例にとり解説している。そして、犍陀多には、
- 多くの人がのぼると糸が切れるのではないか(客観的な判断)
- 自分だけは助かりたい(自らの心根の問題)
の二つがあると言っている。①の問題はどうあれ、②の問題は確かにある。
私たちの心の中には、確かに、犍陀多のような、また救命ボートで自分だけ助かろうとする人のような「浅ましさ」が潜在しているのではないでしょうか。少なくとも、私にはあります。(抜粋)
『蜘蛛の糸』の原話
この『蜘蛛の糸』には原話は、ポール・ケアラーの創作説話集『カルマ(Karuma: A story of Buddhist Ethics)』(初出:一八九四)の中に入っている。『蜘蛛の巣 (The Spider-Web)』である。正確には、芥川は鈴木大拙が訳した『カルマ』の日本語版選集『因果の小車』を読んだものと考えられている。
ここでポール・ケアラーは、キリスト教に疑問を持ち、仏教を研究した人なんだけども、その出発点がシカゴで開催された「シカゴ万国宗教会議」 で、釈宗演の演説を聞いたからだ、といったことが本には載ってなかったけども、放送で紹介されていた。この釈の演説の英訳に鈴木大拙がかかわっていたんだよね。
そのあたりは、『日本仏教再入門』に詳しいよ。ココあたりを読んでね。(つくジー)
原話との二つの違い
このケーラスの『蜘蛛の巣』の特徴として著者は次の二つを指摘する。
- 前向きな訓話であること
- 心情的でなく教理的であること
ケーラスの物語では、「自分は地獄行き必定の悪党だ」と告白する男に、僧侶が救済の可能性があると教えるために、この話(芥川の『蜘蛛の糸』相当)がされる。つまり話はA(地獄行きと思っている悪党)の話とB(カンダタ)の話が入れ子になっていて、Bは救われなかったが、Aは救われる可能性があるという前向きな話になっている。そしてケーラスの話では、最後に悪党は「私は地獄の底から自らを引き上げるつもりだ」と言って終わる。つまり全体として「前向きな訓話」となっている。
この点に、救済宗教として仏教の紹介を目的とするケーラスと、人間心理の観察に主眼を置く芥川とのスタンスの違いが、端的に表れています。(抜粋)
次に、ケーラスの物語の中のカンダタの話(B)も芥川の話と筋はお何であるが、論理構造は大きく違っている。ケーラスの場合は、カンダタの話をする前に「自我という幻想を断ち切った者は、自分にも他人にも善をもたらす」と心理を説く。この心理は単に「自己中心はいけないという」よりももっと哲学的である。
仏教の場合は、自分の善行を自分の手柄、所有物とは考えずに、自分とは切り離して善行の通過点と考える。このような教理を僧侶は入念に語っている。
要するに、ケーラスの話では、自我を断ち切ってカンダタが糸を登っていければ、その糸をつたって多くの人が救われることを説いていて、悪党の「私は地獄の底から自らを引き上げるつもりだ」の言葉の中には、他の人もそれを伝わって救われるいうことまで含む教理的な話となっているが、芥川の話は、絶体絶命の時に自分中心に行動してしまう人間の心理劇となっているってことだと思うよ。(つくジー)
ここで著者は、ケーラスの話の題名「蜘蛛の巣」となっていて、網目状のクモの巣(ネットワーク)がいい比喩になっていると指摘している。
ケーラスの話で僧侶は「蜘蛛の巣にすがる者が増えるにつれて、各人の努力が容易になる」と言っていて、自我の執着と対照的な人と人とのつながり、ネットワークが有益に作用することを示している。
カンダタは蜘蛛の巣の中の目前の一本の糸を無心にのぼっていけばよろしい。つまり、自我の幻想を断ち切ることで蓄積されていくネットワークの力を信じて、自らに与えられた課題を着実にこなしていけばよい。(抜粋)
このように考えるとケーラスの物語では、カンダタの振舞の問題点は、心情的な「浅ましさ」よりも、教えを説く心理からの逸脱と考えられる。
ケーラスは用いていないが、仏教では「自我の幻想に囚われない」ことを「無我」と呼び、自我よりも本質的な「物事の関係性」を「縁起」と呼ぶ。ケーラスの話は、そうした思想を土台にしている。
関連図書:
芥川龍之介(著)『蜘蛛の糸・杜子春』新潮社(新潮文庫)、1968年
末木 文美士(著)『日本仏教再入門』 講談社(講談社学術文庫)、2024年

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