内村鑑三の戦いと予言(前半)
岡本 亮輔 『キリスト教入門の系譜』より

Reading Journal 2nd

『キリスト教入門の系譜』 岡本 亮輔 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

序 章 内村鑑三の戦いと予言――読むキリスト教の始まり(前半)

「はじめに」が終わり、ここからいよいよ本文となる。今日のところは、「序章 内村鑑三の戦い」である。副題の読むキリスト教の始まりとあるように、本書が問題とする「キリスト教入門」の始まりとして内村鑑三がいるようである。

本章は、”前半“と”後半“に分けてまとめるとし、まず”前半“では内村の生涯を追っている。


内村鑑三は、さまざまな肩書を持つ偉人であるが、彼の友人たちと比べると、いわゆる成功者の道から外れていた

彼が、学友と同じように研究者は教育者の道を歩んでいれば、そのキャリアは自然と帝大教授あたりに落ち着いていたと思われる。しかし、不敬事件をきっかけに学会や官界で生きる道を閉ざされ生涯在野に身を置いた

内村は、月間の個人雑誌を中心にその読者の交流会や講演会を重ね、毎週自宅で集まった人に対し聖書の講義をした。そして、それらの収入で生計を立てていた。

本書にとって重要なのは、内村が教会の外でクリスチャンとして生きる形を切り拓いたことである。(抜粋)

彼は、キリスト教に入信するなり、教会組織の危うさを探り当て、個人が聖書を学び、信仰を実践する無教会主義を提唱した。

本書に登場する多くの人物が、直接間接に内村に影響を受けている。彼を天使と呼ぶ人もいれば、悪魔と呼ぶ人もいた。肯定するにせよ否定するにせよ、内村の思想と生き様は、強烈な磁場を生み出したのだ。教会外のキリスト教の姿を探る本書にとって、まずは内村の人生と思想に触れなければならない。(抜粋)

十字化の戦士 — 内村鑑三の無教会主義

札幌農学校でのキリスト教との出会い

内村鑑三は一八七七年、一六歳で札幌農学校に入学した。同期には、終生の友情を結んだ新渡戸稲造宮部金吾がいた。

彼らはいずれも旧幕臣の家に育ち、農学校の前は東京英語学校(のちの第一高等学校)に在籍していた。同校の卒業生は、無試験で開成学校(後の東京大学の前身の一つ)に入れるが、彼らはそれを選ばす農学校に入学したのは経済的事情があった。そのころ札幌農学校は官費生で学費が無料、衣服や食費も支給される。そのため彼ら没落士族の子弟にとって、現実的な選択肢であった。

しかし、そこで彼らを待ち受けていたのは、キリスト教との衝撃的出会いだった。(抜粋)

内村らは二期生で、初代教頭プレジデントウィリアム・スミス・クラークは、帰国していたが、彼は一期生に聖書に基づく人格教育を施し、全員がクラーク作の「イエスを信じる者の契約」に署名していた。そして、一期生は、初めての後輩の二期生に改宗を迫った。

そして改宗をもっとも激しく抵抗したのが内村だった。しかし、ついにはそれに署名をしてしまう。

内村のキリスト教入信は、彼の意思にも良心にも反した強制だったのである。(抜粋)

しかし、改宗後の内村は誰よりも熱心な信者となった。彼は信仰の友達と自分たちの教会づくり情熱をそそいだ、そして卒業後内村は、仲間とともにどの教派にも属さず、外国人宣教師の援助も受けない札幌独立教会を設立する。この教会は日本プロテスタントの三大源流の一つ、札幌バンドの拠点であり、現在も牧師を置かない札幌独立キリスト教会として存続している。

また、札幌農学校での内村は、学業もおろそかにせず、ほとんどすべての科目で最高点を出し、入学から卒業まで主席を通した。

内村の渡米

一八八四年、農商務省の水産課に勤めていた内村は最初の結婚をする。しかし、一年もたたず結婚は破綻し、アメリカに旅立った。私費の留学であった。

内村は渡米目的を「まず一人前の男になること、そして愛国者になること」と記しているが、実態は身一つでの日本からの逃亡に近かった。(抜粋)

渡米後、看護職で働いていた内村は、八五年にクラークの母校、アマースト大学の三年次に編入した。援助したのは新島襄にいじまじょうだった。新島は、自らの恩師ジュリアス・シーリーに推薦状を書いた。内村も渡米前からシーリーの調査区に親しんでおり、その信仰と人格に深く感銘を受け、深い回心(悔い改め、神に向き直ること)をした。

卒業後、理学士となった内村は、神学士号も取ろうとハートフォード神学校に進学したが、プロの牧師養成教育は内村には合わず、心身ともに消耗し、数ヵ月で退学して日本に帰国した。

北越学館事件

帰国後の内村のもとに北越学館から声がかかった。新潟県初のキリスト教学校である北越学館は、内村にうってつけの職場だった。しかし、着任後すぐに外国人宣教師や学校幹部と衝突してしまう。

外国人宣教師の中には日本人を未開民族のように扱う者がいたが、学校幹部は彼あの経済的支援がなければ学校経営が成り立たないために、宣教師とその背後のアメリカ伝道団の意向を無視できなかった。愛国者の内村はこの事態に際して、宣教師と伝道団からの経済的独立を訴える意見書を提出する。そして、両者の対立は深まり、生徒を巻き込む騒動に発展した。そして、内村は、着任から四か月で追放されてしまう。

内村の不敬事件

その後、内村は水産伝習所(現・東京海洋大学)、東洋英和学校(現・麻布中学高校)で教えた後、第一高等中学校(現・東京大学教養学部)に迎えられた。同校の前身は内村が学んだ東京英語学校である。さらに赴任前に横浜加寿子と再婚している。

しかし、順風満帆に見えたその矢先、内村は北越学館事件とは比べ物にならない大騒動を巻き起こす。(抜粋)

第一高等中学校で教育勅語の奉読式が行われたとき、教職員と生徒は順に奉拝する必要あり、その奉拝は、体を直角に折る最敬礼でなければならなかった。しかし内村はその信仰心から敬礼が浅くなってしまった

それを数十名の教員と千名の学生が目撃し、全国の新聞が報じたことで、彼は国賊になった。(抜粋)

これが、内村鑑三不敬事件である。

同校には他にもクリスチャンの教員がいるが、彼らは流行していたインフルエンザを理由に欠席していた。内村も同様に欠席することもできたが、彼はごまかさなかった。その前日に、仲間に累を及ぼさないように、籍を置いていた札幌独立教会を退会する手紙を送っている。

何が起こるか承知の上での行動だった。(抜粋)

この騒動により翌月内村は職を解かれ、また心身を消耗した加寿子夫人が病に倒れそのまま帰らぬ人となった。その後、内村は不遇と窮乏の日々を送ることになる

内村の無教会主義

内村は、不敬事件により在野で生きる運命となった。不敬事件以後、内村は文筆業に軸を据え、一九〇〇年、三九歳で月刊誌『聖書之研究』を創刊した。

無教会主義はプロテスタンティズム精神の極致である。教会に通うからではなく、聖書を学び、神を信じるから救われる。キリスト教から教会を取り去れば、神への道が開かれると内村は考えた。内村の弟子で後の東京大学総長の矢内原やないはら忠雄は、「敵によって内村は無教会主義に追い込まれたが、それこそ心理であった」と断言している。

『聖書之研究』は、好評を博し、内村に経済的な安定と独立をもたらした。各地で読者の交流会「教友会」が発足し、時に内村が訪ねた。そして、毎週日曜日には、内村宅で聖書研究会が開かれた。その中核は、第一高等学校校長の新渡戸稲造の勧めで内村の門をたたいた学生たち、つまりエリートの集まりだった。

ルツ子の急逝と再臨信仰

一九一二年に五一歳の内村に悲劇が訪れた。愛娘のルツ子の急逝である。ルツ子は、原因不明の病でこの世を去った。さらに、第一次世界大戦やスペイン風邪の流行などの社会的な要因も重なり、内村は再臨さいりん信仰へと導かれる

十字架刑の後、復活したキリストが、地上で四十日間福音を説いてから昇天した。そのキリストが再び地上に降り立つのが再臨である。そして、全ての死者が蘇り、最後の審判が始まる。これが終末論である。

この再臨の解釈のは

  • 「遠い未来の出来事」と見るか「近々起こる出来事」と見るか
  • 「霊的体験」と捉えるか「肉体を持ったキリストの降下」と捉えるか

によって分かれる。

再臨を「遠い将来の精神的出来事」と捉えれば穏健であるが、内村は「まもなく生じる自然現象」と捉えた

それまで、穏棲気味だった内村が各地へ出かけ、呪われた地球の改造が再臨だと説いた。進化論にも疑義を呈し、人間の知恵など神の前では無力であり、再臨による宇宙改造は自然現象として起こると語ったのである。(抜粋)

内村は、再臨運動を推進していた日本ホーネスト教会の中田重治かだじゅうじ木村清松せいまつ共に、全国で公演を行った。

この再臨運動は植村正久をはじめとする日本キリスト教界の重鎮たちから批判を招く、植村の弟子の富永徳磨とみながとくまは、『基督再臨説を排す』を刊行し内村の主張を批判した。富永は、再臨は、ローマ帝国による迫害下で生まれた時代思想に過ぎず、現代日本人が、額面通りに信ずるのはばかげていると論じた。

富永は、「聖書は神を信じるための手段であって目的ではない。キリスト教は聖書を超越する」という立場であり、「聖書研究を全ての基礎」とする内村と違っていた。

この再臨運動は、現代の視点からすると、原理主義であり、富永の批判は的を附いていると著者は指摘している。そして、内村自身もまもなく再臨運動から距離を置くようになった。

再臨運動の出発点には、愛する娘の死があった。再臨は娘と再開するための切実な希望だったのである。

再臨運動から約一〇年後の一九三〇年に内村は六九歳で亡くなった。死後から一週間後に聖書研究会の解散式が行われ、その日の午後、内村の遺骨はルツ子の墓の横に埋葬された。翌月、『聖書之研究』の週刊号が発行され、廃刊となった。

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