『日本奇僧伝』 宮元 啓一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
行巡 – 反骨の人
今日のところ「行巡」である。日本の仏教は、よく言えば在家主義、悪く言えば世俗依存主義のため、世俗の権力の統制のもとにあった。そのため、出家というものを真剣に捉えた僧はその世俗との関係に悩まされた。その一つが「王地」「王土」の壁である。行巡には、この「王地」を見事に手玉に取った逸話が残っている。それでは読み始めよう。
「王地」「王土」の壁
日本では、特に奈良時代、平安時代に「王地」という考え方があった。これは、律令制のもとでは、原則的に個人が私有する土地はなく、全て天皇の領地であるという考え方である。そのため、日本の国土に住む者は、すべて天皇の大御心によって住まわせていただいていることになる。
前節の叡実も、本心はともかく表向きは「王地にいながら」という理由で、宣旨に従っている。
ところがここに、この「王地」なるものを手玉に取った痛快な僧がいる。行巡というのがその人であり、はなはだ短い話ながら、次のような逸話が伝えられている。(抜粋)
行巡の逸話
行巡の出自などは何も分かっていないが、彼は、摂津の国の箕面の勝尾寺の六代目座主であった。
清和天皇が重い病気にかかったとき、加持祈祷をする高僧が求められた。その時、白羽の矢が立ったのが、行巡だった。使者として藤金吾が選ばれた。
しかし、行巡は内裏への参上を断固断った。そこで藤金吾は、
「この国の続くかぎり、王(天皇)の臣下でないものはおらぬはず。師は俗世間をお捨てになられたとはいえ、王地に住まわれていることは疑いありませぬ。でありますから、ただちにここをお立ちになって、帝の恩に報ずべきではないかと存ずる次第であります」(抜粋)
と言った。すると行巡は持っている杖をたて、その上にむしろを引いて坐った。
「拙僧はかくのごとく、王地に坐っておらぬ」(抜粋)
藤金吾も負けじと
「さりながら、杖の下は王土ではござりませぬか」(抜粋)
すると行巡は、今度は空中に浮きあがり、じっと留まった。これを見た藤金吾はびっくり仰天し、慌てて戻り、内裏にこのことを奏上する。
そこで、天皇は内裏に参上せずとも、せめて陰ながら加護をたまわりたいと行巡に申し入れ、法衣一着、数珠一つを献上した。そして、その甲斐あって、天皇はたちまち平癒した。
この話がある『扶桑隠逸伝』の作者は、賛にこう記した。
「釈尊は、成道の後、国に帰られたことがあるが、父親である王がこれを迎えて拝み奉ったとき、釈尊はさっと空中に上がられた。 ・・・・・ 今、行巡座主も、勅を受けて虚空に上がられた。釈尊がそのようにされたのは、父親から礼を受けるのを避けるためであった。 ・・・・ 行巡座主がそのようにされたのは、内裏とか朝廷を避けるためであった。すべて、しかるべきわけがあってのことであり、ただいたずらに、神通を開陳しようとして、そのような挙に出られたのではないのである。 ・・・・・ 』(抜粋)

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