『日本奇僧伝』 宮元 啓一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
徳一と行空
仏教の修行僧という者は、衣食住にわたって小欲知足でなければならないが、日本では、奈良時代以来立派な僧坊に住み、高価な衣をきる僧が普通になっていた。ここでは、仏教本来に姿である徹底して粗末な衣食住にあまんじで過ごした出家、徳一と行空が紹介されている。されでは、読み始めよう。
頭陀行と日本仏教
仏教の修行僧は、古くは三衣一鉢、坐具、漉水嚢の「六物」だけを持ち、遊行生活をしていた。このような、物への執着を離れた厳しい生活を送ることを「頭陀行」という。しかし、日本では奈良時代・平安時代を通じて、貴族からの布施を得て、立派な僧坊に住み、高価な衣装をきるのが僧の普通の生活となっていた。
したがって、徹底して粗末な衣食住に甘んずる出家がいれば、これはやなりたいしたものであった。(抜粋)
徳一
徳一は、恵美仲麻呂の子で、興福寺の修円のもとで法相唯識を学んだあと、東大寺に在籍していた。そして、ある事件に巻き込まれ東国に追いやられたが、常陸の国の筑波山に寺を開き、学僧、信者を集めた。
徳一の生活ぶりは質素であり、弊衣麁食(くたびれた衣と粗末な食事)を常として、小欲知足の生活を送っていた。長い道のりを行く時も、決して輿を用いず、老いぼれた牛が引く車に乗ったり、痩せた馬にまたがった。
この徳一は、最澄の一乗説を法相宗の三乗説の立場から批判し、いわゆる「三一権実」の論争を争った。また、空海の即身成仏に対しても手厳しい批判を加えて空海の持ち込んだ密教は、仏教(とくに大乗仏教)にあるまじき教えであると主張した。
徳一は会津まで布教し慧日寺を開いた。そしてそこで最期を迎えたため、しばしば「会津の徳一」と呼ばれる。
この徳一との論争は、『日本仏教再入門』のココに詳しく書いてあるよ。(つくジー)
行空
世間の人から「一宿の聖」と呼ばれていた行空もまた遊行と頭陀行に徹した人であった。彼は法華経の持者で、日に六部読誦し、夜また六部を読誦し、いささかも怠ることがなかった。
彼は、出家し道心を発こしてから、住むところを定めず、一ヵ所に二晩続けて泊まることもなかった。加えて出家の最低限の所持品とされる三衣一鉢すらもたず、持ち歩いていたものは法華経ただ一部だった。五畿七道を、六十余国、つまり日本全国を渡り歩き、最後に放浪した場所は九州だった。九十歳になっても法華経の読誦を止めず、ついに極楽浄土に往生したという。
後記
後記では、本書の執筆の経緯が書かれている。
インド宗教、思想の研究者であった著者は、全くの個人的な愉しみとして、僧の伝記を含む仏教説話の類を読んでいた。全く研究分野が違うため、本書の類の書物を執筆するとは全く思っていなかった。
それが、この本を書くきっかけとなったのが友人の大野純一、面白い本だと持ってきてくれた元政上人の『扶桑隠逸伝』である。この本は、七十五人の隠逸の人の逸話が載っていて、たいへん面白く、後の『近世畸人伝』に代表される奇人伝ブームの走りの書であった。
『扶桑隠逸伝』の面白さをあちこちで吹聴していたところ、東京書籍の井上浩一氏から声がかかったのことである。
文庫版へのあとがき
次に「文庫版へのあとがき」では、旧著から文庫版の刊行までの十二年間に行った研究の内容にふれ、大乗仏教の批判がなされている。
著者の、この十二年間の研究の主要部分は、大乗仏教批判、ひいては救済主義批判、であったという。そして当然その批判は、日本仏教批判となる。
日本仏教は、ゴータマ・ブッダの思想から随分と遠ざかっている。大乗仏教は、ゴータマ・ブッダの透徹した生のニヒリズムと経験論、それに裏打ちされたプラグマティズム、そしてかれの中道精神、から逸脱してしまっている。
思えば、本書は、こうした私の取り組みの出発点をなすものであった。(抜粋)
つまり、本書で取り上げた人々は、日本仏教の裏舞台に潜み、表舞台を徹底的に忌避し、批判した人である。
著者は、地下鉄サリン事件を起こしたオーム真理教への批判らしい批判が日本仏教側からなされていないことを指摘し、次のように言っている。
オーム真理教は、大乗仏教およびその突出形態である密教(金剛乗)の鬼子とはいってもれっきとした子供であり、したがって、大乗仏教に身を寄せる人たちは、それを批判することができないからである。それを批判するという作業は、そういう人たちにとって、みずからの依って立つ基盤を掘り崩すことにほかならないのである。(抜粋)
著者は、「オーム以後」の今日において、仏教や仏教学がどれほどの存在意義があるかと批判している。そして、本書はこの「オーム以後」においても、古びるどころか新たな光を放っていると評している。
関連図書:伴 蒿蹊(著)『近世畸人伝』、岩波書店(岩波文庫)、1940年
[完了] 全20回

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