王導 / 王羲之 / 顧愷之 —- 東晋・南北朝 (前半)
井波 律子 『奇人と異才の中国史』より

Reading Journal 2nd

『奇人と異才の中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

I 古代帝国の盛衰 3 花開く貴族文化 — 東晋・南北朝(前半)

今日から、「乱世の英雄と批判精神」東晋・南北朝時代に入る。ここで取り上げられるのは「王導」「王羲之」「顧愷之」「謝道韞」「陶淵明」「顔之推」の6人である。

東晋・南北朝は、前半、後半に分けてまとめる。今日のところは「王導」「王羲之」「顧愷之」である。それでは読み始めよう

王導(政治家)

王導おうどうあざな茂弘ぼうこうは、東晋とうしん王朝創業の功労者である。彼は名門貴族琅邪ろうや王氏」の出身で、異民族の侵入により崩壊寸前の西晋を脱出し江南に渡り、従弟の王敦おうとんとともに琅邪王司馬睿しばえいを補佐して江南の亡命政府である東晋の設立に尽力した。

「王(敦・導)は馬(司馬睿)と天下を共にす」と称されるとおり、東晋王朝は司馬氏と琅邪王氏との連合政権の様相をおびて誕生した。(抜粋)

王導は、北から渡ってくる人と江南に土着している人との融和をはかり東晋を軌道に乗せる。その東晋の一番の危機は従弟の王敦の反乱であった。この「王敦の反乱」の時に、王導はそれに同調せず、反乱のおさまった後も東晋のトップの座を占めていた。

王導の政治は、それまでの商鞅しょうおう曹操そうそう諸葛亮しょかつりょうの政治とは対照的であった。彼は対立や緊張を緩和させ、異分子を包み込こみ、穏やかに共存させることに苦心した。世説新語せせつしんごによると王導は晩年はますます鷹揚になり、書類もろくに見ずに、ただ「よし、よし」というだけになった。そして「人は私を憒憒かいかい(混乱していいかげんなこと)というが、後世の人はきっとこの憒憒の意味をわかってくれるだろう」といってため息をついたという。

王羲之(書家)

王羲之おうぎしあざな逸少いつしょうは、書聖しょせいと呼ばれる書の名手であった。彼は、名門貴族琅邪ろうや王氏」の出身であり、王導と王敦の甥にあたる。硬鯁こうこつと称される硬骨漢であったが、ときに権謀術数を弄する中央官界になじめず、自ら地方勤務を希望して首都を離れ、風光明媚な会稽かいけいの長官となる。

会稽では、謝安しゃあんをはじめ多くの友人が隠棲していて、王義之は心置きなくかれらとの交遊を楽しんだ。彼の最高傑作「蘭亭序」もそのような交流から生まれている。その後、四十九歳で完全に政界から引退し、以後は興のおもむくまま筆をとり、五十九歳でこの世をさるまで、隠遁生活を充分楽しんだ。

顧愷之(画家)

顧愷之こがいしあざな長康ちょうこうは、中国絵画史上、最初の画家であり画聖がせいと呼ばれた。顧愷之は、人物画が得意であり、モデルの特徴を凝縮して表現した。ある人物画を描き、最後に頬の部分に三本の毛をかき加えたところ、格段に生き生きして見えたという逸話が残っている。しかし、顧愷之の肖像画はすべて散逸している。

顧愷之の伝記には不明な部分が多いが、江南有数の土着豪族である顧氏につながる家系であるといわれる。顧愷之は、天才画家であり当時の貴族サロンで求められる言語センスも持ち合わせていた。その一方、極端な熱中癖のある奇人で、当時の人からも「三絶(三つの世にもまれな面)」があるとされた。この「三絶」才絶さいぜつ(才のきわみ)」「画絶がぜつ(画のきわみ)」「痴絶ちぜつ(阿呆のきわみ)」である。

「書聖」王義之おうぎしは名門貴族の出身であり、書を趣味として悠然と楽しんだ。しかし、そんなバックのない顧愷之はパトロンになってくれる有力者を次々にさがして画をかきつづけた。(抜粋)

中国最初の大画家の顧愷之ですら、画才を売り物の流転の生涯を送ったのである。

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