賀川豊彦 『死線を越えて』 — この宗教文学がすごい!(後半)
岡本 亮輔 『キリスト教入門の系譜』より

Reading Journal 2nd

『キリスト教入門の系譜』 岡本 亮輔 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

第1章 この宗教文学がすごい!―― 煩悶青年たちの爆発的ベストセラー(後半)

今日のところは、「第1章 この宗教文学がすごい!」の”後半“である。”前半“では『新約』の爆発的なヒットで有名になった江原小弥太えばらこやた『新約』が紹介された。今日のところ”後半“では、同じく大正時代の大ベストセラーとなった宗教小説、賀川豊彦『死線を越えて』が取り上げられている。それでは、読み始めよう。


一九〇九年のクリスマス・イブ、二一歳の賀川豊彦(一八八八年~一九六〇年)が神戸のスラム街・新川しんかわに身を投じた。 ・・・・中略・・・・ 彼は、この街でイエスの教えを広めることを志し、同時に、死に場所を求めていた。(抜粋)

幽霊屋敷の聖者 — 賀川豊彦『死線を越えて』

新川に向かうまでの賀川豊彦

賀川は神戸の裕福な家庭に生まれたが、四歳で立て続けに両親を失った。徳島の本家に引き取られるが冷遇される。しかし、成績優秀の賀川は徳島中学校に入学した。そして中学校に入るが、そこで胸に疾患が見つかる。さらに、一五歳の時に家督を継いだ兄の自供失敗と放蕩で賀川家は破産した。宿舎代や学費の支払いに窮した賀川は叔父に預けられた。

しかし、ここで運命的な出会いがある。英語を習いに通っていた教会のアメリカ人宣教師C.A.ローガン博士H.W.マイヤー博士の人柄に感銘し、一六歳で受洗をした。そして、明治学院に進学する。

加賀は、明治学院神学部の予科を修了後にローガン博士が神戸に新設した神学校に移ることになったが、その入学前に胸の病気が悪化し生死をさまよう。そして賀川は

臨死を体験した。全身が光に包まれ、不思議な浮遊感に満たされた。(抜粋)

奇蹟的に小康状態を取り戻した賀川は、神学校に入学する。

神学校でも喀血と発熱を繰り返し入院生活が続く、そして愛知県で静養している時、自伝的小説『鳩の真似』を執筆する。この原稿を携え東京の島崎藤村に訪ねたが、藤村は原稿に興味を示さなかった。原稿を預けて帰ってくるが、数か月後、原稿とともに「出世するまで出版するな」という、手民が届く。その後も神学校では、勉強に打ち込むも危篤に陥るなど健康はすぐれなかった。

やがて路傍伝道を志す。長くは生きられぬと悟り、残された時間を神と貧しい人々のために使い切るべく、新川に向かった。(抜粋)

『死線を越えて』の大ヒット

賀川が新川に行ってから約一〇年後、『鳩の真似』をベースとした小説『死線を越えて』が刊行された。

『死線を越えて』で賀川の分身である主人公・新見栄一は、高い志を抱きながらも自分の弱さに苦しみ、現実の壁に何度も打ちのめされる。しかし、彼はジョン・ウェスレーの偉業に感銘を受けた。ウェスレーも病弱ながら、スラム街で伝道し、メソジスト派を興すなど大事業を行った。

栄一はウェスレーにならい、「死を決しても貧民窟へ行く」ことを決める。(抜粋)

『死線を越えて』は、賀川が実見したスラムの現実を描き出す。そして、それでも栄一は、新川に居心地の良さを感じ「イエスの自覚」に到達する。やがて、栄一のまわりに人が集まり、彼らは弱者を搾取する企業へのストライキを後援する。『死線を越えて』のラストは、後の妻・賀川ハルがモデルの樋口喜恵子が、ストライキ煽動の容疑で連行される賀川を涙で見送る場面である。

この『死線を越えて』は、日本出版史に刻まれる異常事態であった。続編の『太陽を射るもの』『壁の声きく時』と合わせて、数百万部を売り上げたと言われる。しかし、この『死線を越えて』は賀川のデビュー作ではなく、また賀川は当時まったく無名という訳でも無かった。

『死線を越えて』の大ヒットは、版元である改造社の経営の基礎となった。一九二二年のアインシュタイン来日は、賀川のヒットで潤った同社の招聘しょうへいである。

その後、賀川は一九一四年から三年弱、渡米しプリンストン神学校で学んだ。渡米時にはニューヨークのスラムの視察、労働運動や労働組合の組織化などについても知見を広げた。

行ってみれば、『死線を越えて』は、社会運動家・著述家としては多少は知られていた賀川を、一躍全国区の存在に押し上げた作品なのである。ふり返れば、島崎藤村の「出世するまで出版するな」という言いつけに、結果として、したがったとも言えるだろう。(抜粋)

メディアスターの悲劇

聖人化する賀川

『死線を越えて』以後の賀川の活躍は超人的である。彼は新川での活動の他に、伝道のために全国を巡り、各地で協同組合や労働組合の立上げに加わり、労働争議があれば先頭に立った。『死線を越えて』は各国に翻訳されたため、世界各国から講演の依頼が舞い込む、それでいて、口述を含み二ヵ月に一冊のペースで本を出していた。

そして、『死線を越えて』のイメージにより賀川は聖人と見なされるようになり、ガンディーシュバイツァーと並び「二〇世紀の三大聖人」と称されるまでになった。

『死線を越えて』の中で栄一は「イエスの自覚」を語り、大衆は賀川こそ現代のイエスであるという物語を共有した。(抜粋)

賀川が起こした組織や事業

賀川は、社会運動や労働運動に情熱をそそぎ、次々と組織や仕組みを生み出していった。そして、口だけでなく著作や講演で得た資金を惜しげもなく投下した。キリスト教の伝道については、百万人救霊運動を宣言し、伝道方法や指導者育成計画を練って全国を飛び回った。

しかし、どれほど情熱があっても、持続運営には別の難しさがある。(抜粋)

関わっている組織は事業が多すぎるため、十分に事業の全てにコミットできない。さらに、自ら先頭に立つことを好み、少しでも反対があると、次のプロジェクトへ去ってしまうようなところがあった。

起業家型リーダーとしては天才的だが、出口戦略がない。残された人々の中に、実務や経営にけた人物がいればよいが、そうでなければ、熱気だけを残して事業はしぼんでしまうのである。(抜粋)

分かれる賀川豊彦の評価

戦後、賀川豊彦への評価は、さらに両極端に割れる。(抜粋)

賀川は、敗戦処理を担った東久邇宮稔彦ひがしくにのみやなるひこ内閣の参与に迎えられ、さらに、後任の首相候補にも挙げられた。天皇にキリスト教を論じ戦災者を見舞う天皇の数メートル後をついて歩いた。ノーベル文学賞平和賞に何度もノミネートされた。

しかし、戦時下の賀川の言動を疑問視する声もある。平和主義を主張しながら軍部に協力して日本の戦争を肯定した。そして、自身や教会の戦争責任については明確な総括を避けたのである。

ここで著者は、賀川への批判として、マスコミの帝王・大宅おおや壮一を例に挙げている。大宅は、自分はイエス・キリストでなく「ノー・キリスト」だとうそぶいているが、一〇代の頃に賀川から洗礼を受けている。大宅は賀川の新川での活動に感銘を受け、スラムにも出入りするようになる。そしてやがて賀川が名声を得て聖人化する過程を至近距離で見つめていた。

大宅は、賀川のもとを去る者たちは人間・賀川に失望したと指摘する。(抜粋)

賀川には、自分が海外にも知られていることに誇りを持ち、自分は伊藤博文より偉いと公言するようなところがあった。また、人を信じすぎるため、賀川を利用しようとする人間が見抜けなかった。

「頭の中で描いていた賀川」と「現実の賀川」の落差に幻滅をもたらした。(『仮面と素顔』)(抜粋)

しかし、大宅は、そもそも賀川に神を求めるのがいけないのであって、最初から人間と思って接すれば、「過度の崇拝」も生まれない、と言っている。

苦悩の魂の記録

最後に第1章についてのまとめが書かれている。

大正期の宗教文学は、日本におけるキリスト教の入口として重要な役割を果たした。

彼らの作品は、生身の痛み、葛藤、そして回心の瞬間が描かれた生きた神学だったと言える。(抜粋)

江原も賀川も、教会の外にいる人々に向けてメッセージを発した。これらの宗教文学は、教養解説の入門書ではなく、魂の記録としての入門書である。

本章を通して見えてきたは、信仰への道が必ずしも直線的ではなく、むしろ回り道や倒錯、絶望を経た末に開かれることである。そうした現実を描き切った文学こそが、人々の心を揺さぶったのだ。(抜粋)

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