北伐からその死まで - 諸葛孔明(その4)
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第二部 — 諸葛孔明(その4)

今日のところは、「諸葛孔明」の“その4”である。諸葛亮は、関係がこじれた呉と再び同盟を結び南方小民族を平定(南征)したのち、いよいよ中原を目指し北伐へ挑む。北伐は、その死に至るまで計五回、通年八年に及ぶ。諸葛亮は、これにより軍事家としても超一流であることを示したのである。それでは読み始めよう。

北伐からその死まで

北伐と「水師の表」

建興五年に諸葛亮は、劉禅に「出師の表」を捧げて、魏への攻め込む北伐を開始した。魏は文帝曹丕が死去しめい曹叡そうえいが即位したばかりで、その間隙を突いた行動だった。

魏を打ち北方中原の回復の決意を述べた「水師の表」は、古今の名文である。この時諸葛亮四十七歳、奇しくも「三顧の礼」をもって諸葛亮を招いた劉備と同じ年齢だった。

これより諸葛公は、その死に至るまで計五回、通年八年におよぶ北伐を決行した。

「泣いて馬謖を斬る」、第一次北伐

第一次北伐にあたり諸葛亮は、おとり作戦を用いた。趙雲らの率いる軍を東寄りコースで進ませ、魏軍を釘付けにした。そして、自ら率いる軍勢を西北に迂回し攻略した。この敵の意表を突いた作戦は成功し、関中西部の魏の諸都はあいついで降伏した。この短兵たんぺい急に長安をかずジワリと攻め寄せる迂回作戦は、軍事家としての諸葛亮の特徴がよくあらわれている。彼は、正攻法をもって戦いにのぞみ、けっしてリスクの大きい奇襲作戦を用いなのである。

しかし、この第一次北伐は失敗に終わる。先鋒せんぽう隊の指揮にあたった諸葛亮の愛弟子馬謖ばしょくが諸葛亮の指示に背き山上の陣をとり、汲道きゅうどう(水を汲みに行くルート)を断たれるという作戦ミスを犯したからである。これにより前進基地を失った諸葛亮はやむなく漢中に撤退する。

敗戦処理にあたり諸葛亮は、軍紀を犯した敗戦責任者の馬謖を処刑した。シビリアンと法治主義を重んじた諸葛亮は、軍事家としても信賞必罰であった。


本文には書いてありませんでしたが、これがいわゆる「泣いて馬謖を斬る」ですよね♬(つくジー)

木牛、流馬の利用、第二次~第四次北伐

諸葛亮は、その年の冬には後出師ごすいしひょうを捧げて、再度出陣する画、曹真に阻まれて、兵糧がつき撤退する。その後も必要に北伐を繰り返すが、さしたる成果をあげられなかった。

その間に、魏の関中軍総司令官の曹真が亡くなり、司馬懿しばいあざな仲達ちゅうたつが後任となった。

魏討伐の執念に燃える諸葛亮と、しぶとくこれを阻もうとする司馬懿の宿命の始まりである。(抜粋)

蜀は、地勢堅固なため守るには容易だが、攻める時は兵員の輸送、軍資や兵量の補給も、険しい山道によらなければならないという、困難がつきまとう。

エンジニアとしても才能があった諸葛亮は、木牛もくぎゅうながえが前についた一輪車)と流馬りゅうば(轅が後ろについた一輪車)という新型輸送機械を考案して、後方基地からの物資輸送の効率アップをはかる。

第四次北伐にあたっては、この木牛が威力を発揮し、輸送がスムーズに進んだが、それがあるときパタリと中断し、この時も兵糧切れでやなく撤退する。その原因は、漢中基地の兵站へいたん責任者の李厳りげんの怠慢であった。漢中に戻った諸葛亮は、李厳を厳しく追及し、その官位を剥奪し完全に失脚させた。しかし、李厳は諸葛亮を恨むどころか生涯信頼し続けた。

諸葛亮の死、第五次北伐

第四次北伐の後、二年間出陣せず、軍事訓練をし、木牛・流馬により兵糧を次々と斜谷に建造した食糧庫に蓄えるなどの準備を行った。そして、満を持して諸葛亮は十万の軍勢を率いて第五次北伐に取り掛かった。

この第五次北伐では、長期駐留に備え、本陣を置いた五丈原ごじょうげんに屯田を開いて食料確保に努めた。これは今までの北伐の失敗の苦い経験によるものである。そして対する司馬懿も前回の対戦で焦って煮え湯を飲まされた経験を踏まえ、持久戦の構えを崩さなかった。

そして司馬懿と対峙すること百余日、諸葛亮はしだいに体調を崩した。諸葛亮の仕事は膨大で、完全なオーバーワークであった。そして諸葛亮は、五十四歳で亡くなる

諸葛亮は、自身の死を伏せて撤退するように遺言していた。司馬懿は、この偽装工作に引っ掛かり追撃しなかった。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」である。

著者は、諸葛亮の戦いについて、険しい蜀道により関中にでるしかないという地理的困難、劉備軍団の第一世代がさり実力が劣る部将だけという戦力不足、こうした条件のもとで諸葛亮は実によく戦った、と評している。


初出掲載誌:(「歴史群像」九二年六月、学研+「ザ・ビッグマン」九二年八月、世界文化社)

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