曹操 / 諸葛亮 / 華佗 — 三国・西晋 (前半)
井波 律子 『奇人と異才の中国史』より

Reading Journal 2nd

『奇人と異才の中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

I 古代帝国の盛衰 2 乱世の英雄と批評精神 — 三国・西晋(前半)

今日から、「乱世の英雄と批判精神」三国・西晋時代に入る。ここで取り上げられるのは「曹操」「諸葛亮」「華佗」「竹林の七賢」「杜預」の5人である。

三国・西晋は、前半、後半に分けてまとめる。今日のところは「曹操」「諸葛亮」「華佗」である。それでは読み始めよう

曹操(政治家)

曹操そうそうあざな孟徳もうとくは、卓越した軍事家にして政治家でもあり、さらに学問にも通じ、有名な詩も残した。

曹操こそ多士済々の三国志世界でも群を抜く存在だったと言えよう。(抜粋)

若いころは法や制度を重視する法家ほうか主義者で後漢の役人として活躍した。その後、後漢王朝が崩壊すると群雄の一人として頭角を表す。「清流派知識人」のホープである荀彧じゅんいくが曹操の軍師となると、清流派知識人が続々と集まってきた。曹操は彼らを活用することにより、早くから軍事政権ではなく、行政機構を整えた本格政権となる基礎を固める。

曹操は、名のみとなっていた後漢の皇帝けん帝を迎え、後見人となる。そして、官渡かんとの戦い」袁紹えんしょうを破り、名実ともに華北の覇者となる。そして、「赤壁の戦い」に負け、天下統一こそなし得なかったが、華北の曹操政権の優位は盤石だった。

曹操は、現代は乱世なのだから、たとえ素行が悪くても有能であれば推挙せよという方針であった。そのため曹操の魏政権は劉備の蜀、孫権の呉に比べ比較にならないほど多彩な人材を吸収することに成功した。

しかし、曹操も晩年になると権力欲が増大し、最終的には最良の軍師荀彧と決裂し、彼を自殺に追いやるに至る。しかし、曹操は、けっきょく最後の一歩を踏み切れず皇帝にならないまま死んだ。

諸葛亮(政治家・軍事家)

諸葛亮しょかつりょうあざな孔明こうめいは、劉備の「三顧の礼」を受けその軍師となった。彼は、持論の「天下三分の計」にもとづく戦略を展開し、ついに劉備を三国の一つ、しょく王朝の皇帝にまで押し上げることに成功する。

諸葛亮は、もともとすぐれた行政家で曹操同様に法や制度を重視する法家主義者だった。劉備が蜀を制圧後、諸葛亮は、無責任体制に馴れた官吏や住民の意識を改めるために、法治政策をとる。それと共に旧政権の有能な人物は重要なポストにつけ、政権の基礎固めをした。この諸葛亮の政策により蜀の国内情勢は整備されていった。

諸葛亮の努力により内政が確立したため劉備は、蜀王朝の項手に即位する。しかし、その翌年、関羽の復讐を期して呉に攻めよりあえなく大敗、劉備自身も死去してしまう。諸葛亮は、暗愚な二代皇帝劉禅りゅうぜんを補佐しつつ、蜀の発展に尽くす。そして、国力が充実して準備が整うとまず南方征伐を行い、反抗的な南方少数民族を心服させ、北伐を決行した。しかし、不退転の覚悟で臨んだ第五次北伐のさなか五丈原で諸葛亮は陣没する。ときに五十四歳であった。

華佗(医者)

華佗かだあざな元下げんかは後漢末に活躍した伝説的名医である。その伝記は陳寿の『三国志』「魏書」方技伝ほうぎでんにみえる。華佗に並ぶ名医としては戦国時代の扁鵲へんじゃくがいる。扁鵲は、一目で病気の原因を透視し、的確な処置をする名医で、ときに死者を蘇生させることもあった。華佗も同様な能力を持っていたが、通常の処置で救えないほど悪化した場合は、患者に麻沸散まふつさんと呼ばれる麻酔薬を飲ませ、外科手術も行った。

華佗は、曹操と同郷であるため、その腕を買われて頭痛もちの曹操の侍医となった。しかし、待遇に不満を抱いて勝手に帰郷したため、曹操の逆鱗に触れ殺害された。その後、曹操は頭痛の発作が起こるたび、華佗がいてくれたらと悔やんだという

そして華佗は、十四世紀に成立した三国志演義さんごくしえんぎとなると、華佗の活躍に入念な操作がくわわる。もっとも印象的なシーンは、関羽の肘にあたった毒矢の毒を抜くシーンである。この時華佗が関羽の肘を切開し骨に付着している毒を削り落とす大手術をするが、関羽は、大手術に平然とたえ、華佗に「将軍は天神だ」と称えられる。また、関羽が敗死した後、曹操にその首が送られてくるシーンでは、首を見た曹操がまた頭痛に襲われる。その頭痛を診断した華佗は、頭を切開して病根を摘出する必要があるというが、猜疑心の強い曹操は、関羽と親しかった華佗が、これを口実に自分を殺すものと考え、とうとう華佗を獄死させてしまう。

『三国志演義』に顕著に見られるように、華佗の名声は時代の経過とともにますます高まり、名医の代名詞となった。(抜粋)

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