徽宗 / 李清照 / 辛棄疾 — 宋 (後半)
井波 律子 『奇人と異才の中国史』より

Reading Journal 2nd

『奇人と異才の中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

II 統一王朝の興亡 2 新しい知識人たち — 宋(後半)

今日のところは「2 新しい知識人たち — 宋」の”後半“である。ここでは、「徽宗」、「李清照」、「辛棄疾」が紹介されている。それでは読み始めよう。

徽宗(皇帝)

徽宗きそうは、すぐれた書家であり画家であった。しかし、政治に対しては、阿諛追従[あゆついしょう]を事とする宰相の蔡京さいけいや宦官の童貫どうかんを重用し、放蕩三昧の末に北宋を滅亡に導いた。

徽宗が十九歳で即位したとき、すでに官僚の闘争が泥沼化し、政治機構はガタガタであった。加えて女真じょしん族が設立した金きん王朝を建てるという状況であった。

しかし、徽宗は内外の危機をよそに、古今の書画収集に没頭し、庭園の造営に血道を上げるしまつだった。(抜粋)

徽宗の離宮「艮岳こんがく」を造園する際に、江南から名木、名花、太湖石たいこせきを運び込む「花石綱かせきこう」という事業を行った。そして、これに苦しめられた民衆の不満が爆発し各地で反乱が勃発する。有名な『水滸伝』 はこの時期を舞台としている。

やがて金に攻め込まれ徽宗は、震えあがって息子の欽宗きんそうに譲位する。北宋は莫大な賠償金を払うなどの不利な条件で金と和睦するが、翌年、和睦条件の不履行を盾に金が攻め込み北宋は滅亡した(靖康の変せいこうのへん)。徽宗は、金に捕らえられ、八年後に死去した。

徽宗は、皇帝としては失格であったが、細く鋭い「痩金体そうきんたい」を編み出し、精密な花鳥画にすぐれ、宮中に保管されていた書画を整理・解説した『宣和書譜せんなしょふ』、『宣和画譜せんながふ』を編纂するなど芸術家としては、一流であった。

こうした徽宗の姿は南唐なんとうの後主李煜りいく(ココ参照)とよく似ている。そのため、徽宗は李煜の生まれ変わりであるという伝説が残っている。

李清照(詩人)

李清照りせいしょうは、伝統中国きっての女性詩人である。父の李格非[りかくひ]も著名な文学者であった。彼女は、少女のころから「詞ツー」の名手として注目を集めた。そして、彼女の才能を愛する趙明誠ちょうめいせいと結婚し幸せな日々を送る。趙明誠は、書画骨董の熱狂的コレクターで、結婚後は李清照も一緒に夢中になって収集した。

宰相であった趙明誠の父が亡くなると、趙明誠も仕官を辞任し、以後十年間、隠遁生活を送りながら膨大な書籍を校勘こうかん・分類し書庫に収め、目録を作る作業に明け暮れる。

しかし、金軍の侵入により彼らの人生は暗転し、北宋が滅亡し亡命政府が江南に成立すると、貴重な書画骨董をもって江南に向かった。やっとのことで江南に到着するが、夫の趙明誠が急病にかかり他界してしまう。その後、金軍の攻撃を避け膨大な書画骨董と一緒に江南を逃げまどった。その間、略奪や盗難に遭いみるみるうちに身ぐるみを剝がされてしまう。

その時、彼女の前に張汝舟ちょうじょしゅうという男が現れ、懇願された結果、彼女は再婚に踏み切った。李清照、四十九歳の時であった。しかし、張汝舟の目当ては、手元に残っていた書画骨董であり、これに気づいた李清照は、たまたま見つけた張汝舟の横領を告発し、張汝舟は流刑となり離婚することができた。

この後、彼女は趙明誠が作成した石刻せきこくの目録『金石録』を整理する一方、詞の制作に没頭する。没年は不明ながら、七十歳前後まで生きたことは間違いない。

辛棄疾(詩人)

辛棄疾しんきしつあざな幼安ようあんは、詞[ツー]の作者として名高い。花柳界から生まれた詞であるが、晩唐のころから文人に注目され、李煜りいく(ココ参照)がより成熟度を高めた。その内容は、男女関係などの感傷的な情緒の表現が主流だったが、大詩人の蘇東坡そとうばにより、思想や志を豪快に歌い込むなどその表現が拡大した。辛棄疾の詞は蘇東坡の流れを汲む。彼は蘇東坡と「蘇辛そしん」と並称され、「豪放派」と呼ばれた。

辛棄疾は、実生活でも剛毅かつ豪放な人であった。彼は金が北宋を滅ぼして北中国を支配し、漢民族は南中国に亡命王朝・南宋を作っていた時代に生まれた。彼は金の支配地域で育ったが、山東一体で金に叛旗をひるがえす義勇軍に参加する。彼はこの時、大いに活躍し、義勇軍から南宋への使者に選ばれ、南宋の皇帝と謁見した。しかし、その結果を知らせるために自軍に戻ると、すでに裏切り者の為に金に降参していた。辛棄疾は、金軍に攻め込み裏切り者を成敗したのち、南宋政権の傘下に入った。

それ以降、かれは主戦派の急先鋒として金軍に対峙し、二十年間、各州の長官として行政と軍を統括した。しかし四十三歳の時に、剛直な辛棄疾を嫌った重臣の差し金で辞職に追い込まれた。しかし、辛棄疾は落胆することなく「稼軒かけん」を作り、以後二十年間、詩や詞の制作にふけった。六十をこした最晩年に、主戦論派の名声を利用しようとした南宋の重臣に招かれ、再び出仕するが、意見が合わず辞任、まもなく死去した。

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