『奇人と異才の中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
II 統一王朝の興亡 3 世界は広がり思想は深まる — 元・明 (その1)
今日から「3 世界は広がり思想は深まる — 元・明」に入る。ここで取り上げられるのは、「趙孟頫」、「陶宗儀」、「鄭和」、「沈周」、「王陽明」、「李卓吾」、「徐光啓」の7人である。
元・明時代は3回に分けてまとめることにする。まずは、「趙孟頫」、「陶宗儀」、「鄭和」である。それでは読み始めよう。
趙孟頫(書家・画家)
趙孟頫あざな子昂は、高名な書家にして画家であった。彼は、宋王朝の一族で、高祖父いらい、風光明媚な湖州に拠点を置き、優雅な生活を送っていた。趙孟頫は、幼いころから勉学に励み、十九歳で国子監(国立大学)に合格し、官界に入った。そのまま順調にゆけば先祖同様に皇族官僚として進んだと思われるが、二十三歳の時に、宋はモンゴルの猛攻により南宋が滅亡し、人生が激変した。
南宋滅亡後、趙孟頫は、十年間隠遁生活を送るが、三十三歳の時に元の世祖の招聘に応じて、出仕し、いらい世祖も趙孟頫を重用した。そして、モンゴル王朝の五人の皇帝に信頼され、中央・地方の要職を歴任した。
その一方、彼は書の分野では王義之を継承した優雅な筆法で数々の傑作をあらわし、画も分野でも、次々に名作を生み出した。夫人の管道昇も書家・画家であり、二人は深く理解しあった同志であった。幸田露伴の『幽霊記』「泥人」は、この夫婦の姿を描いた作品である。
そして趙孟頫は、パートナーの管夫人の死に遅れること四年、六十九歳でこの世を去った。
陶宗儀(随筆家)
陶宗儀あざな九成は、元末明初の文人学者である。彼の父は地方役人で、彼自身も元末に科挙を受けたが合格できず、以降、時代が明となっても無位無官を貫いた。この間、教師として生計を立て、著作と編纂に明け暮れる。
陶宗儀の代表作『輟耕録』は、元代の制度や文物、小説、書画等々を詳細に論じた筆記の秀作である。また多種多様は文献資料を網羅的に収集した『説郛』も編纂している。この中には原本がすでに失われている筆記小説も多く、その史料的価値は極めて高い。さらに、太古から元代にいたる書家の小伝を記した『書史会要』も著している。
元王朝が急速に衰え洪武帝が全国を統一し明王朝を立てても、陶宗儀は、頑として出仕要請を拒否している。洪武帝の政治手法が冷酷であったため、多くの文人が警戒して出仕要請を断っている。
鄭和(冒険家)
鄭和は、明初期に、七回にわたって大船団を率い、南海遠征をした。彼は昆陽(雲南省)出身で、先祖代々イスラム教徒だった。明が雲南を制圧したとき少年召使となり強制的に去勢された。明は洪武帝の死後、健文帝となったが、これに反発した燕王が挙兵した(「靖難の変」)を起こし、勝利した燕王は永楽帝となる。鄭和はこの「靖難の変」で武功をたて、永楽帝より内宮監太監(最高位の宦官)に任命され、鄭という姓を与えられる。
永楽帝は、南海方面に大船団を派遣し、諸国の服属を求めるとともに貿易を行おうとした。この南海遠征の総指揮官に選ばれたのが鄭和である。彼は智謀にあふれた武将であり、イスラム教徒であったため国際感覚もあった。
鄭和は、約三十年にわたり七回の大遠征を指揮した。そして、磁器や絹などの中国特産物と諸国の胡椒・象牙・香料などの特産物の交易に大きな成果を残した。

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