メイド・イン・ジャパンの救世主:井上洋治 –– 日本人は神を愛せるか(その3)
岡本 亮輔 『キリスト教入門の系譜』より

Reading Journal 2nd

『キリスト教入門の系譜』 岡本 亮輔 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

第5章 日本人は神を愛せるか ―― 裁きの神と赦しの神の相剋(その3)

今日のところは「第5章 日本人は神を愛せるか」の“その3”である。ここでは、前回の遠藤周作の盟友である井上洋治が取り上げられる。井上も遠藤と同じく「日本文化とキリスト教」という課題に取り組み、仏教などの深い考察をへて「南無アッパ」に象徴される独自のキリスト教感にたどり着いた。それでは読み始めよう。

メイド・イン・ジャパンの救世主 — 井上洋治と南無アッパ

井上洋治のその生い立ちと洋行

井上洋治ようじは、遠藤周作と同じ船に乗ってヨーロッパに赴いた。そしてその後二人は、親友となる。

彼は、東大に在籍していた二〇歳のとき、カトリックの洗礼をうけた。姉が修道女となり、その影響でリジュ―の聖テレーズを知ったことも影響した。聖テレーズは、二四歳で早逝した修道女である。その死後に見つかった自叙伝が大反響を呼び、二八年という異例の速さで列聖された。井上もその自叙伝に心を動かされ、テレーズと同じカルメル会の修道院に入るべくヨーロッパに赴いたのである。

しかし、そこに待っていたのは過酷な規律と労働で、悲惨な状態での生活が続いた。彼は七年半を修道院で過ごすが、結局カルメル会を退会し帰国した。

彼は神学校に入りなおすが、ヨーロッパのキリスト教に憧れを持つ他の神学生と打ち解けられず、唯一の理解者が遠藤周作だった。

『日本とイエスの顔』:アッパという叫び

このような経験をもとに井上は『日本人とイエスの顔』を刊行した。井上は冒頭で西洋人の認識の違いを論じた。

  • 西洋:「~について知る」、主体と客体を明確に分け、対象について知識を積み重ねる。
  • 日本:「~を知る」、主体と客体が溶け合い、体験や感性と通じて世界と交わる。

井上はこのような違いが聖書の読み方や信仰に影響するとした。西洋式の「知る」は、神と人間を切り離して認識するが、日本的な「~を知る」は、知識や言葉ではなく、人間存在の根源と体験的な交わりを重視する。

そして井上は、イエスの言葉「アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。・・・後略・・・」のアッパ(幼児語で父)こそ「それなしには自分がもはや自分ではない根源的な何かへの深い呼びかけの叫び」だと捉える。

井上は、奇跡やイエスの復活も事実でないとした。イエスは、奇跡を起こせず、惨めに死んだとした。しかし師を見捨てて逃げた弟子たちは、その復活を根源的に体現し、神のために喜んで命を投げ出す宣教者に生まれかわった。

聖書は、そうした弟子たちの変身をイエスの復活として語っているのだ。と井上は捉え返した。(抜粋)

これは遠藤の日本の宗教風土論と通じ合う。遠藤が文学によって日本人の神を模索したが、井上はそえを神学の言葉で支え、理論化した。

また、井上は『日本とイエスの顔』で西行、道元、親鸞、良寛、一遍などの思想を手掛かりに日本的な感性に即したキリスト教を模索した。そして、多くの読者の共感を得たが、キリスト教界からは批判が相次いだ。

『日本人とキリスト教』では、とりわけ浄土宗の法然と親鸞への深い共感が強調される。法然や親鸞は、「南無阿弥陀仏」と一途に唱えることに救いを見出だした。この「南無」はサンスクリットの「帰依きえ」に由来する。つまり南無阿弥陀仏は、「阿弥陀仏に帰依します」という意味である。

『法然 … イエスの面影をしのばせる人』:法然とキリスト

ある時、ふと「南アッパ」という祈りが井上の口をついて出た。『法然 … イエスの面影をしのばせる人』(二〇〇一年)は、法然とイエスの近似を突き詰めた作品である。(抜粋)

この本は、イエスを追い求めるうちに気づいた法然への憧れを、イエスへの憧れ重ね綴った作品である。井上が法然から学んだのは、宗教とは思索ではなく、行ぎょうするものだということである。信仰は具体的な実践であるということである。

日本に根ざしたキリスト教の探求

最後に、著者は、第5章全体をまとめている。

本章では、戦後のカトリックの歩みを追った。彼らは、立場や経歴も異なるが、日本社会とキリスト教の接点を模索し続けた。

彼らの活動は、カトリック教会の変化とも関係している。このころカトリックは転換期を迎え「教会の現代化」が行われた。そして、これまで、普遍の真理を自認していたカトリック教会であったが、自分たちの普遍性や絶対性を和らげ、地域性や相対性に道を開いた。この動きに響き合うように遠藤や井上は日本人にふさわしい神の姿を追い求める。これは、カトリック教会の変化を先取りする営みであった。

自分たちの信仰を普遍的に置く白い人の視座からすれば、遠藤や井上の信仰は逸脱と見なされても仕方ない。だが、同時に、それが日本という沼地に根ざした、切実な問いの中から生まれたことも確かである。キリスト教と日本人の間に横たわる壁は、今もなお強固に存在する。(抜粋)

関連図書:
聖テレーズ(著)『霊魂の自叙伝』、岩波書店(岩波文庫)、1987年
井上洋治(著)『日本とイエスの顔』、日本基督教団出版局、1990年
井上洋治『法然 : イエスの面影をしのばせる人』、筑摩書房(こころの本〉、2001年

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