『奇人と異才の中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
I 古代帝国の盛衰 1 すべての始まり — 春秋・戦国・秦・漢(その3)
今日のところは、最初の春秋・戦国・秦・漢の時代の“その3”である。今日は「司馬遷」「班超」についてまとめる。それでは読み始めよう。
司馬遷(歴史家)
司馬遷あざな子長は、神話・伝説の時代から前漢の武帝の時代までの歴史書『史記』を著した歴史家である。
彼の父大史令、司馬談には、孔子が整理した歴史書『春秋』につづく時代の歴史を、トータルに記述したいという構想があった。そのため息子の司馬遷には、歴史文献学と民俗学的フィールドワークの両面から歴史家として英才教育を行った。
そして、司馬遷三十六歳の時、必ず宿願の歴史書を完成させよと遺言して父の司馬談が亡くなった。その後大史令となった司馬遷は、本務に忙殺されながらも『史記』の執筆を開始した。
しかし、五年後に司馬遷の人生を根底からくつがえす大事件が勃発する。この年、将軍の李陵は、匈奴との戦いで、降伏の余儀なくされた。重臣たちは、こぞって李陵を非難したが、司馬遷は武帝の前で李陵を弁護した。これが武帝の逆鱗に触れ、司馬遷は、男性機能を失う屈辱的な宮刑に処せられた。
このとき四十八歳。死ぬよりつらい日々をくぐりぬけ、やがて司馬遷は武帝に対する怒りと怨念をこめて、『史記』の執筆を再開する。(抜粋)
『史記』(全百三十巻)の主要部分は、各時代の権力者の伝記を並べた『本紀』(十二巻)と、特徴的な生き方をした個人の伝記「列伝」(七十巻)である。このような歴史の記述方式を「紀伝体」と呼び、司馬遷の発明である。
『史記』が完成したのは司馬遷五十六歳の時である。そして、彼はその四年後六十歳で死去した。彼の運命を変えた武帝の死の翌年のことであった。
班超(軍事家)
班超あざな仲升は西域遠征で大いなる功績をあげた人物である。
前漢・後漢を通じ漢王朝は、北方異民族の匈奴の侵攻になやまされた。前漢では、大軍を繰り出して匈奴を打撃し、西域諸国を支配下にいれたが、王莽が新王朝を立てたころから、また匈奴が進出し始めた。その後、劉秀(光武帝)が後漢王朝を立て、全土を再統一する。
光武帝は、内政を重視し対外的には消極策を取ったため匈奴はますます勢いづいた。そして、二代目皇帝の明帝のころには、国境地帯まで攻めよって来た。後漢王朝は慌てて、竇固を総大将とする遠征軍を派遣した。
この遠征軍に参加して頭角を現したのが班超である。彼は西域に留まること約三十年、後漢と匈奴との間にある西域諸国を帰属させ、西域都護として諸国を統括するに至った。
班超の成功のきっかけは、西域諸国の一つ鄯善に使者として赴いたことである。その時、匈奴の使者もやってきたため、鄯善の王は途端に班超を粗略に扱うようになった。
班超は、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と、連れてきた三十六人の部下を激励して、匈奴の宿舎を焼き討ちし、総勢百人をこえる匈奴の使者一行を全滅させた。(抜粋)
この事件で鄯善の王は震えあがり、後漢に忠誠を誓った。
班超は、学者の家の出身であった。実際父の班彪は、『史記』に嗣歴史書を現わし、兄班固は、『漢書』を編纂した。この班固がある事件に連座し獄中死した後、妹の班昭が『漢書』の未完成部分を補った。
班超も当初は兄と同様、学問に励んだが、「男たるものは、傅介子(前漢、元帝の時の人)や張騫(前漢、武帝の時の人)のように異域で功績を立てるべきだ」と、西域に乗り出し、みごとに秘めたる才能を開花させた。(抜粋)

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