あの方に捧げた日本国:志村辰弥 –– 日本人は神を愛せるか(その1)
岡本 亮輔 『キリスト教入門の系譜』より

Reading Journal 2nd

『キリスト教入門の系譜』 岡本 亮輔 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

第5章 日本人は神を愛せるか ―― 裁きの神と赦しの神の相剋(その1)

今日から「第5章 日本人は神を愛せるか」に入る。日本人にとって唯一神は馴染みなく、キリスト教の神はしばしば厳しく、時に苛烈にすら映る。しかしそのキリスト教の神に惹かれる日本人がいる。第5章では、そのような日本人3人、志村辰弥たつや、遠藤周作、井上洋治がとりあげられる。第5章は“その1”で志村辰弥、“その2”で遠藤周作、“その3”で井上洋治をまとめることにする。

今日のところは、志村辰弥である。彼は戦時中にカトリックを守り抜いた司祭であるが、その後、奇跡を心霊現象と捉えオカルトブームの一端を担った。それでは、読み始めよう。

あの方へ捧げた日本国 — 志村辰弥と秋田の貴婦人

戦時下のカトリック教会と志村辰弥の活躍

第二次世界大戦の直前、カトリック教会に軍部から極秘の要請があった。それは、英米に宣戦布告後にフィリピンを占領する計画であるが、そのときカトリック信者の多いフィリピン住民の心を安定させるために、日本人の司祭五〇名と信者一五〇名の選出を求めるものであった。

この時、カトリック教会は、軍部の要請を断れば、教会の存続が危ぶまれ、かといって、教会の名で政治や戦争には関われないというジレンマに陥った。結局、個人の名で宣撫班への志願者をつのるしかないと結論に至った。

この任務を担ったのが、志村辰弥たつやである。志村は、九州から北海道まで奔走し、志願者を集め、それ以降も軍部や特高警察との難しい交渉を重ね、戦時下のカトリック教会を守り抜いた。

フランシスコ・ザビエルの聖遺物奉迎

終戦後、志村はカトリック教会の総務部長に就き、教会復興に力をいれた。そして、「フランシス・ザビエル聖遺物」奉迎の一大イベントに加わる。

ザビエルは、日本に二年ほど滞在したのち、中国布教のために中国を目指すが、中国本土に上陸する前に病没する。遺体は一度埋葬されるが、一年後掘り起こされ、イエズス会のアジア布教の拠点があるインド・ゴアに移された。そして死去から六二年後に、ザビエルの右腕は切り落とされ、ローマへ運ばれた。

聖人の遺骸やその一部を「聖遺物せいいぶつ」と呼ぶ。カトリックでは、聖人の遺骸は腐敗を免れるとされ、ザビエルの右腕も切断時に鮮血が噴出したとされる。そしてその奇跡により、サビエルは聖人となった。

一九四九年は、サビエル来日から四〇〇年にあたり、それを記念してザビエルの「聖遺物」がローマから日本に運ばれ、長崎から東京まで巡回した。志村は、この東京巡回の責任者であった。

そして、志村は、フランシスコ・ザビエルが日本に上陸した日が終戦の日と同じ八月一五日であることに意義を感じていた。

カトリックにおける聖母の地位

プロテスタントとカトリックでは、多くの違いがある(ココ参照)、イエスの母マリアの位置づけも異なる。プロテス単語では、マリアは処女懐妊したとはいえ、一人の人間であり、特別視されるのは、イエスだけである。しかし、カトリックでは、マリアは「聖母」として特別な崇拝を集める。世界各地にある「ノートルダム(我らの貴婦人)」は、マリアを指す。

カトリックにおけるマリアの地位も、長い時間をかけて確立された。マリア崇敬は、古くからあるが、四三一年にマリアは神の母テオトコスと認められ、一八五四年に「無原罪むげんざいの御宿おんやどり」が宣言され、この日、一二月八日が祝日となる。そして、一九五〇年に聖母の「被昇天ひしょうてん」が定義された。被昇天とは、マリアが神の力で天に引き上げられたことを言うが、その祝日が八月一五日であった。

そして志村は、真珠湾攻撃と無原罪の御宿りの祝日(一二月八日)、敗戦とザビエルの来日と聖母の被昇天の祝日(八月一五日)が同じ日付であることに深い意義を見出し、やがて聖母の神秘へと引き寄せられていく。(抜粋)

ルルドの奇跡

ここで、フランスのルルドで起こった奇跡の話に移る。

ルルドの奇跡は、一八五八年にルルドに住む一四歳のベルナディッタ・スビルーが洞窟で聖母に出会ったことに始まる。そして、その洞窟から奇跡の泉がわき出した。当初、村の司祭は、ベルナディッタの話を信用しなかったが、彼女が「無原罪の御宿り」というに及んで、ペルナディッタの話を信じるに至った。「無原罪の御宿り」の教義は四年前に宣言されたばかりで、教養のない少女が答えられるはずのないものだった。そして、洞窟からわき出した「ルルドの泉」の水は、奇跡的な治癒をもたらすと信じられ、ルルドには、世界各国から傷病者が集まり、カトリック最大級の聖地となった。前章の戸塚文卿もヴァイオレットと共にルルドを訪れている(ココ参照)。

このルルドの奇跡は、早いうちから日本でも伝わり、『るるどの姫君』『ルルドの洞窟』などが翻訳されている。このルルドの奇跡については、奇跡の認定に厳しいバチカンも公認している。

秋田の聖母

志村辰弥は、このルルド奇跡、一〇〇年を記念して『ルルドの出来事』を出版する。内容は、従来のルルドの解説書と大差ないが、巻末に志村自身のルルド巡礼記が載っている。彼は、イタリア留学を終えた帰国する前にルルドを訪れている。そしてルルドの泉の効果により奇跡的に下半身不随から回復したフランス人男性と語り合っている。

そしてその二〇年後、志村は『ここ事実を何とみる — 神と霊界の探求』、『聖書にみる予言と奇跡 — 続この事実を何と見る』の2冊の本を立てつづけに出版する。これらの書籍は、『ルルドの出来事』とは論調が異なり、

志村は、自然科学の限界をしきりに強調し、テレパシー・千里眼・背後霊・幽体離脱・霊視などを取り上げ、聖母出現をそうした心霊現象の一つに数える。(抜粋)

カトリックでは、奇跡は神のみがなすものとし、魔術・占い・幽霊などへの信仰は厳禁である。しかし志村は、人魂も幽霊も実在するのだから、迷信として退けず、真摯に探究すべきとしていた。

そして、志村が情熱を捧げたのが、秋田の女子修道院で起きた聖母の奇跡である。その修道院では、S修道女の手に聖痕が現れた前兆の後、一九七五年から八一年にかけて聖母像が一〇一回涙を流し、掌から血を流すこともあった。この事件は、週刊誌やテレビなどのメディアでも話題になり、教会上層部も放っておけずに調査委員会を立ち上げる。調査委員会の結論は否定的で、最初はS修道女の「超能力」現象である判断された。しかし、志村は『聖母像か血と涙』で、聖母像の落涙は、S修道女の超能力でないと反論した。

その後、秋田の聖母は、新潟教区司教に承認された。再調査の結果、超能力や悪魔の仕業とは考えられず、教会の信仰と違反していないと判断されたのである。

著者は、『聖母像から血と涙』は、自家出版の小冊子であるが、『この事実を何と見る』や『聖書にみる予言と奇跡』の版元が、オカルト系書籍で知られるたま出版であることを指摘している。そして、志村の聖母像論が、一九七〇年代のオカルトブームの影響を受けたのとは間違いないとしている。

カトリック教会の両極を体現した志村

しかし、戦前・戦中は危機にある教会を支えた司教が、人生後半を迎えて徐々にオカルトに傾倒したと理解するのは単純すぎるだろう。(抜粋)

その後も志村は『やさしい教理問答』などの解説書を出版し教誨きょうかい師としても活躍しているからである。そして、著者は、「超能力」のような言葉を当然のように、調査委員会も使用していることを指摘し、心霊現象への関心は時代的な風潮であったと言っている。

また、カトリック教会のウェブサイトにも、「日本と聖母マリアについて」という記事があり、一二月八日と八月一五日の一致の事実を取り上げられ、さらにサンフランシスコ講和条約が調印された九月八日が聖母の誕生日と、ルルドで最初に奇跡があった二月一一日が建国記念日と重なる事実が述べられている。つまりカトリック教会もこのような符号に意味を見出しているのである。

世界規模の広がりを持つカトリック教会は、様々な信念や慣習を抱え込み、奇跡や神秘でさえ官僚制の枠組みのもとで管理する。その多面的な性格こそが、カトリックの本質である。近代と前近代、合理と非合理、伝統と革新、現実と神秘 ---- その両極を呑み込みながら発展してきたカトリック教会の姿を、志村辰弥はその生涯を通じて体現したのである。(抜粋)

ルルドの奇跡については『フランス26の街の物語』のココ参照。

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