『奇人と異才の中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
I 古代帝国の盛衰 1 すべての始まり — 春秋・戦国・秦・漢(その2)
今日のところは、最初の春秋・戦国・秦・漢の時代の“その2”である。今日は「秦の始皇帝」「漢の高祖」「司馬相如」についてまとめる。それでは読み始めよう。
秦の始皇帝(皇帝)
秦王政は、五百年以上つづいた春秋戦国時代に終止符を打ち天下を統一、秦王朝を立て、始皇帝となった。彼は、法や制度を重視する合理主義者だった。戦国時代で各地でまちまちだった度量衡、貨幣、車軌(車の両輪の幅)、文字を統一するなど、さまざまな制度を整備・統合した。
この天下統一の事業を補佐したのは、丞相の李斯である。もともと秦は天下統一の百年前に法家思想家商鞅の国家改造計画により大飛躍を遂げた国である。その商鞅の思想や政治手法を継承し李斯であった。李斯は、思想統制のため、医学書、農学書のような実用書と秦の歴史書『秦記』以外の書物を没収し焼却する悪名高い「焚書」を行った。
天下を統一してからの始皇帝は、首都咸陽に「阿房宮」を始めとする巨大宮殿を建造し、咸陽郊外に巨大な驪山陵(始皇陵)を建造するなど、富みを濫費した。そして、死への恐怖にかられ、不老不死を切望した始皇帝は、方士(方術・魔術を使う者)の言いなりになり、しばしば大金を投じて仙人や仙薬を探索させた。焚書と共に悪名がたかい「坑儒」は、その過程で盧生というインチキ方士にだまされて、激怒した始皇帝が、盧生と関係がある方士、学者を次々と逮捕し生き埋めの刑に処した事件である。
そして、始皇帝は皇帝になってから十一年目、まだ五十歳でこの世をさった。始皇帝の死後、息子の胡亥が即位すると、無能な胡亥を悪辣な宦官趙高が操り、李斯などの競争者を排除し、やりたい放題を繰り返した。そのうち各地で反乱が勃発し、中国全土が騒乱状態となる。この騒乱状態のなか始皇帝の死後わずか四年で、秦王朝は滅亡した。
漢の高祖(皇帝)
秦末の混乱をおさめて、天下を再統一したのは、漢の高祖劉邦である。彼は、農民の出身で若いころは農業を嫌って放蕩三昧であったが、村の亭長(村長)となり、その地方のボス呂公の娘(のちの呂后)と結婚する。彼は、驪山陵(始皇陵)の建造のために囚人を率いて現場に向かったが次々と脱走者が出るため、やむなく全員を解放し自らは盗賊の親分となる。このような、人々はこのような劉邦の勇敢な行為に敬意をはらい、しだいに地方の任侠集団のボスとなっていった。
始皇帝の死後、秦に内乱がおき混乱すると、劉邦は後の漢王朝のブレーンとなる蕭何、曹参、周勃、樊噲などを中心に軍団を結成し秦末の乱世に乗り出す。
そして、劉備軍団は、項梁・項羽軍団と共に各地で激戦を戦った。しかし、劉邦が一足先に首都咸陽を抑えると、項羽との関係は悪化する。項羽は、鴻門で劉邦の殺害を試みるが、逃げられてしまう(鴻門の会)。やがて項羽と劉邦は、互いに「漢楚の戦い」を演じ、そして「垓下の戦い」で勝利した劉邦が天下を統一した。
劉邦は、出身や個人的武力には関羽に及ばないが、「長者」と呼ばれる包容力と冷静な判断力と知力があり、その点で性急で強引な項羽に勝っていた。
漢王朝の初代高祖になってからの劉邦は、「長者」どころが、猜疑心に囚われ、妻の呂后と共謀し、韓信を始め軍事力を持つ功臣を次々と粛清した。
不滅願望にふりまわされた秦の始皇帝といい、疑心暗鬼にとりつかれた漢の高祖といい、至高の権力には人を狂わせる魔力があるのかもしれない。(抜粋)
司馬相如(文章家)
司馬相如あざな長卿は、後漢の主要な文学であった賦(韻文の一種)の名手として知られている。
司馬相如は、最初、景帝に仕えていたが、景帝が文学を好まなかったため、文学好きの梁孝の元に身を寄せた。梁孝王の死後、故郷の成都に戻るも実家は没落していた。そして、臨邛県で知事をしていた幼馴染の王吉に誘われて臨邛に行く。
司馬相如は、臨邛の大富豪卓王孫もとで開かれた壮大な宴会で琴の腕前を披露する。それを見ていた卓王孫の娘卓文君と恋仲になり、二人は成都に駆け落ちしてしまう。
二人の駆け落ちに激怒した、父の卓王孫は援助を拒否した。すると卓文君は司馬相如を連れて、実家のある臨邛に戻り、手持ちの車馬などを売り酒場を買って商売を始めてしまった。
そこで卓文君が酒客の相手をし、司馬相如がふんどし姿で皿洗いをするなど、堂々と酒場稼業にいそしんだものだから、さすがの卓王孫も閉口し、ついに卓文君に莫大な財産を分与した。(抜粋)
そして、まもなく司馬相如は第七代皇帝の武帝に才能を認められ、宮廷文人として「天子遊猟の賦」などの名作を残した。

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