『奇人と異才の中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
I 古代帝国の盛衰序 1 すべての始まり — 春秋・戦国・秦・漢(その1)
「まえがき」が終わり、ここからいよいよ本文となる。最初の春秋・戦国・秦・漢の時代で取り上げられるのは、「孔子」「商鞅」「荘子」「秦の始皇帝」「漢の高祖」「司馬相如」「司馬遷」「班超」の9人である。
春秋・戦国・秦・漢は、3つに分けてまとめるとして、今日は「孔子」「商鞅」「荘子」についてまとめる。それでは読み始めよう。
孔子(思想家)
孔子あざな仲尼は、儒教の祖である。春秋時代に魯で生まれ、苦労して学問を修め、三十代で優秀な学者と認められた。やがて魯の定公が学者として名高い孔子を抜擢し、大司寇(法務大臣)に任命する。当時の魯は、三桓と称される三公族が勢力を持っていた。定公は孔子にこの三桓を押さえるように願い、孔子もかねてから崇拝していた周公旦(周王朝創設の功労者)の理想政治を行おうと努力した。しかし、三桓を打倒することはできず、失脚し魯を去ることになった。このとき孔子はすでに五十五歳だった。
その後、孔子は弟子たちを伴い、自分の政治理念を理解してくれる君主を求めて十四年にわたり遊説した。
しかし六十八歳の時、孔子は得るものが少なかった諸国遊説を終え魯に戻る。それから七十三歳で死去するまで、弟子たちの教育に力を注ぐ一方、「五経」すなわち『書経』、『礼経』、『詩経』、『易経』、『春秋』、を整理・編纂した。そして『論語』は、弟子たちが編纂した孔子の言行録である。
商鞅(政治家)
商鞅は、「戦国七雄」が争った戦国時代に秦の孝公に仕えた政治家である。彼は、法律や刑罰を重視する刑名に通暁していた。
彼は小国衛の国の出身だったが、まず魏の国の宰相公叔座に仕えた。公叔座は商鞅を高く評価し、「自分の死後、商鞅を後任の宰相とするか、さもなくば、すぐに殺して国外に出さないように」と進言した。しかし、魏王はこの進言を聞き流し、商鞅は公叔座の死後、事もなく魏をさり秦に向かった。
秦の孝公は、商鞅の中央集権国家に改造すべきであるという意見に共鳴し、彼を「変法」すなわち国家改造計画の責任者に任命する。商鞅は、これを受け民衆レベルでは厳格な相互監視制度を設け、秦の王族など上級クラスに対しても、軍事的実績に応じて厳密な投球付けをおこなうなど、人々を上から下まで、効率よく管理する体制を整えた。
この商鞅の変法は大成功をおさめ、秦の国はみるみると整備される。秦は遷都を行うなどさらに国家基盤を強化したうえで、遷都十年目に隣国魏に進軍し、魏軍を撃破、大勝利をおさめる。
商鞅を国外に出すなといった、かつての魏の宰相、公叔座の危惧は的中したのである。(抜粋)
この勝利で商鞅は領地を賜り、商君と呼ばれるようになった。しかし、孝公が死去し息子の恵文王が即位すると暗転する。商鞅に処罰されそうになった苦い思い出がある恵文王は、即位するや商鞅を反逆罪で逮捕しようとしたのである。逃亡に失敗した商鞅は秦軍に殺害され、恵文王はその死骸を車裂きにしたという。
商鞅はこうして冷酷な政治手法のツケがまわって非業の最期を遂げたが、彼が実施した法重視と中央集権体制は、秦の基本方針としてうけつがれ、約百年後、始皇帝の天下統一の最大の武器となった。(抜粋)
荘子(思想家)
荘子は、戦国時代の人で、老子とともに道家の祖となっている。荘子は、若いころに漆園の役人だったことがあるが、その後、仕官した形跡はない。名声を聞いた楚の威王から宰相にと頼まれると、「肥え太らされて祭りの犠牲になる牛よりも、泥まみれになって自由に遊び戯れていたほうが、ずっとましだ。生涯、仕官せず、自分の志を快適にしたいだけだ」と拒絶した。荘子は、名誉も栄達も望ます、ただ自由を求め、貧しい路地裏の隠者的生涯を送ったものと思われる。
荘子の先輩にあたるもう一人の道家思想家の老子は、東周王朝の図書館に勤める役人だったが、やがて『老子(道徳経)』五千言を残して姿を消したとされる。老子は儒家と違い、人間は万物の根源たる「道」を知るために、「無為(何もせず)」「自然(あるがまま)」であることが大切であると説いた。
荘子も老子どうように「無為自然」を重視するが、老子の無為自然は、世事に関わらない方が安全だという、処世術につながる要素があるが、荘子の無為自然は、もっと超越的で、世間や社会と関係なく大いなる自然と一体化し、内なる自由の領域を拡大することを目指すものである。
両者は『老子』と『荘子』という著作を残したが、前者が短い格言を集めた箴言集であり、後者が奇想天外な物語を織り込んだ寓話集になっている。

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