殉教の目撃者 — Nîmes(ニーム)
池上 英洋 『フランス 26の街の物語』より

Reading Journal 2nd

『フランス 26の街の物語』 池上 英洋 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

Chapter 4 世界遺産を歩く / 殉教の目撃者 — Nîmes(ニーム)

ローマ帝国のコロセウム

ローマ帝国で重きをなした約二〇の主要都市には、フォールム(広場)、テルム(公衆浴場)とならんで、コロセウム(闘技場)があった。そこでは、剣闘士同志の戦いや猛獣使いのショー、古代戦闘の再現試合などが行われ娯楽として非常に人気があった。しかし、このような娯楽はキリスト教の時代になると一掃されローマの遺構は姿を消していった。

このようなコロセウムには、部分的な破壊はされたものの今でも当時の姿をよく保存しているものがある。その一つが南フランスのニームに残る闘技場である。この闘技場は帝国内で九番目の中堅クラスのものである。

ローマ帝国でのキリスト教の迫害

一世紀後半頃からキリスト教がローマ帝国内で着実に広がっていった。キリスト教は、最後の審判での肉体の復活を信じる立場から死者を土葬するが、これが火葬を習慣としていたローマ信徒の目には奇異に映る。さらに無宗教の人がいない当時は、キリスト教徒の布教は、多神教の信仰を捨てさせることを意味した。

ローマ皇帝は現人神あらひとがみとして多神教の神々の一角を占めていたため、キリスト教のただ一つの神しか信じてはいけないという教えは、皇帝自らの地位を脅かすことでもあった。そこで、ローマ皇帝たちはキリスト教に対し追放や迫害で応じた

このキリスト教迫害では、多神教への改宗を拒んだ信者は、処刑された。そして、当時はこのような処刑は、その抑止効果を期待し公開で行われた。

しかし、処刑する側が予期せぬことが帝国中で起こった。それは、彼ら殉教者たちが取り乱したり抵抗しないことがしばしばあったことだ。(抜粋)

キリスト教の始まりはキリスト自身の刑死からはじまり、彼らは、キリストの死による贖罪と復活を、そして死後の救済を信じていた。そのため彼らは自分たちが刑死で果てることで救済されることを信じることができた。このような死に対して毅然とした態度を取る信者たちを見たローマ市民は、この宗教の底知れぬ力を感じ取ったのである。

ニーム闘技場でのペルベトゥアの処刑

このニーム闘技場では、聖ペルベトゥアの処刑が行われた。これは中世のベストセラーであるヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』にも記されている。彼女は、円形闘技場で刑死した女性信者の一人である。彼女はカルタゴの貴族の娘であるが、キリスト教の信仰を棄てることを拒否したため処刑された。彼女は獄中で日記を書いていたため、それをもとに殉教録が作られている。ライオンに食い殺されたという説と炎で焼かれたという説がある。

往年の姿を今によく伝えているニーム闘技場の階段席に座わる時には、一八〇〇年前のローマの建築技術とその壮大さに感嘆すると同時に、そこで数えきれないほどの剣闘士や殉教者が命を落とした事実に思いを馳せたいものだ。(抜粋)

ニームのその他の遺跡

ニームにはこの円形闘技場の他にも古代の遺跡が数多く残っている。今も残るマーニュの塔は、紀元前六世紀ごろのケルト系先住民の造った塔をもとに紀元前一世紀に造り直されたものである。紀元前一二一年からローマがこの地を支配した。そしていまでも廃墟と化したディアーナの神殿跡フォンテーマ庭園に見ることができる。さらに共和制ローマの帝政植民地となり、西暦五年にギリシア風の神殿現在のメゾン・カレ)が完成している。


関連図書:ヤコブス・デ・ウォラギネ(著)『黄金伝説』 I, II, III, IV、平凡社、2006年

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