『銀河鉄道の夜』(その3)
中村 圭志 『ファンタジーに秘められた宗教』より

Reading Journal 2nd

『ファンタジーに秘められた宗教』 中村 圭志 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

第④回 『銀河鉄道の夜』 生者と死者の旅路(その3)

今日のところは、「第④回の「『銀河鉄道の夜』 生者と死者の旅路」の“その3”である。これまで“その1”と”その2”において、ジョバンニの「覚醒体験」「喪失体験」を通して、『銀河鉄道の夜』には、法華経の菩薩道という背景があることが示された。今日のところ“その3”では、賢治とキリスト教の関りと共に、原稿の変化から、それが単なる伝道の書としてではなく、あえて曖昧な部分を残した文学として昇華していることが説明される。それでは読み始めよう。

『銀河鉄道の夜』、伝道の書から文学へ

ここから著者は、宮澤賢治の原稿の「初期形」(第三次稿)と「最終形」(第四次稿)を比較し、考察をしている。

まず、著者は「初期形」では、「最終形」よりも賢治の法華信仰のビジョンが明示的に描かれていることを指摘している。

「初期形」では、伝道者ブルカニロ博士と「セロのような声」の人物が登場し、具体的な教えを説いている。現存する原稿から読み解くと、ジョバンニは、伝道者ブルカニロ博士が与えた「切符」の感化力によって銀河鉄道の夢を生み出し、その霊的空間の中で死者たちに出逢うと同時に、気高い理想に覚醒すると解釈できる。そして、その切符に書かれている「おかしなとおばかりの文字」とは、島地大等訳の『漢和対照妙法蓮華経』ココ参照〉に書かれたサンスクリットのイメージであると理解されている。

つまり「初期形」では、ジョバンニはあくまで伝道者の示唆や刺激のもと覚醒しているが、「最終形」では、伝道者の登場部分を削除し、ジョバンニが自力で覚醒する物語に変化している。

『銀河鉄道の夜』の起源の一つの伝道用のチラシでは、伝道のための説法が軸となるが、このアイデアを膨らまして構想された『銀河鉄道の夜』では、その覚醒が主人公の主体的成長でなければ覚醒の説得力がなくなってしまう。賢治はそのように考えたと著者は推測している。

このような変化のため、『銀河鉄道の夜』は理屈っぽい説教の部分を無くし、抒情的な美しい文学作品に成長したのである。

宮澤賢治とキリスト教

『銀河鉄道の夜』は、キリスト教の要素が多いことが一つの特徴である。法華信仰を持つ賢治であるが、描かれているクリスチャンは徳義あるりっぱな人である。物語に出てくるクリスチャンの青年の行いも、りっぱであり、それは賢治の法華信仰における菩薩の道に通じている。著者は、法華経を基本に社会的救済に励む法華信仰は、慈善活動に励むキリスト侵攻に似たところがあるとしたうえで、賢治はキリスト教に敬意を抱いていたのではないか、と言っている。

賢治は、旧制中学時代に盛岡のパプテスト教会の聖書のクラスに出席していたし、そればかりか、無教会主義の内村鑑三の弟子である斎藤宗次郎さいとうそうじろうと親しく交流していた。しかし、二人が信仰について踏み込んで議論を闘わせることはなかった。

著者は、『銀河鉄道の夜』の「初期形」の「セロのような声」の持ち主のエピソードを引いて、結局、教理と実践は別と考えていたのではないかと、言っている。

教理の違いを解決するのは遠い未来に任せて、今は互いに尊い実践者として認め合おう、というのが賢治の結論だったように感じられます。(抜粋)

『銀河鉄道の夜』のスピリチュアリティ

作品を通じて賢治が訴えたかったのは、人々が互いの救済のために尽くそうということです。(抜粋)

賢治は、その救済を輪廻の展望の中に置いた。一方、キリスト教での救済は、天国への道へ方向づけられている。この二つの宗教は似ているが違っている。その点を巡る葛藤を『銀河鉄道の夜』では正直に表している。

そして、賢治は伝道(教理への帰依を促す営み)と文学(読者の自発性に委ねる営み)の違いに直面し、最終的には文学の方向に舵を切った

イメージの鮮烈さに加えてどこか謎を宿しているところが、『銀河鉄道の夜』の魅力です。謎の一旦は、信仰的一元性を指向しつつ、解釈の多元性に開かれていることによります。伝統の枠に収まり切らぬ現代的スピリチュアリティを証する作品だというのが、私の結論です。(抜粋)

関連図書:宮沢賢治(著)『新編 銀河鉄道の夜』新潮社(新潮文庫)、1989年

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