『奇人と異才の中国史』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
I 古代帝国の盛衰 2 乱世の英雄と批評精神 — 三国・西晋(後半)
今日のところは、三国・西晋時代の”後半“である。ここでは、政治から距離を置き、竹林に集まって酒を飲み「清談」や音楽を楽しんだ「竹林の七賢」と呉を撃破し西晋の天下統一の立役者となった「杜預」が紹介されている。それでは読み始めよう。
竹林の七賢(隠者)
曹操の子孫が立てた魏王朝もまたたくまに衰え、実権を握った司馬懿、司馬師、司馬昭、司馬炎が三代四人がかりで簒奪する。この混乱した王朝交替期に、身の安全を期しつつ、自由な生き方を追求したのが、「竹林の七賢」、すなわちある。阮籍、嵆康、山濤、向秀、劉伶、阮咸、王戎である。
彼らは、老荘思想の無為自然をモットーに隠遁し、竹林に集まり、酒を飲み、「清談(哲学談義)」や音楽を楽しんだ。彼らの竹林での清遊はほぼ十年続いた。
やがて、司馬氏より「竹林の七賢」にも出仕要請がくる。この岐路に対峙した七賢は各人各様の対応をした。
- 嵆康:ただ一人出仕を峻拒した。彼は魏との関係が深い家柄で、世評の高い名士であったため司馬氏も警戒していた。そして、その激しい性格により司馬氏と衝突し、友人の事件に連座して処刑されてしまう。
- 阮籍、阮咸、劉伶:形だけ司馬氏の参加の官僚になったものの、大酒を飲んだり、奇行にふけったりしてサボタージュを繰り返し、無用は無害だと司馬氏に認識され無事に生命を全うした。
- 山濤、王戎、向秀:積極的に政権に参加し、先の二人は司馬氏の西晋王朝の重臣にまでなった。しかし、山濤は、嵆康の処刑後、その遺児を見守りつづけ、王戎は、西晋が衰退するとさっさと見切りをつけて見限った。彼らの処世の根本には悪しき権力との同化を拒否する「竹林の七賢」の精神がみられる。
彼ら七賢は政治情勢に迫られ、隠遁の夢をまっとうすることができなかったけれど、それぞれの流儀で竹林に集まったころの理想を忘れずに、みずからの道を歩んだといえよう。(抜粋)
杜預(歴史家・軍事家)
杜預あざな元凱は、大軍事家であり、かつ大歴史家である。祖父の杜畿は曹操政権の重臣でかつ学問を重視した。父杜恕は、魏を簒奪した司馬懿に嫌われ流刑となる。しかし、その地で著述に励んだ。このような学問重視の家風のなかで杜預は、膨大な量の書物を読み歴史家としての土台を作る。
杜預は、司馬懿の死後、司馬師・司馬昭の妹と結婚する。そして、魏から西晋への王朝交代期には、内外の要職を歴任し、名将羊祜の後任として、荊州総司令官として、魏・呉・蜀の三国のうち唯一残っていた呉と対決する。彼は、武帝(司馬炎)の賛同のもと、重臣の反対を押し切り呉に総攻撃をかけ、西晋の全土統一を成しとげた。
杜預こそ西晋全土と統一の最大の功労者だったのである。(抜粋)
これを機に、引退を願い出るが許されず。さらに四年間総司令官として荊州に留まった。そして、任満ちて洛陽に帰還する途中で死去した。
彼は、公的人生を送りながら、自他ともに認める「左伝癖(『春秋左氏伝』に対する熱狂的愛好家)」であった。この左伝は、孔子の『春秋』に注釈を加えた解説書である。彼は
『春秋』を神格化する従来の思想をしりぞけ、歴史的事実を満載したその解説書『左伝』いもとづいて徹底的に検証するなど、明確な方法論もった突出した歴史学者であった。(抜粋)

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