『日本奇僧伝』 宮元 啓一 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
仙人群像 – 異能の人
日本の仙人としては、これまでも前回の陽勝や役小角などが取り上げられている。今日のところ「仙人群像」では、その他の仙人で仙人らしく当時の人に人気のある何人かの仙人を選んで紹介されている。それでは読み始めよう。
深山で修行し空を飛ぶなどの超能力を身につけた人を、日本では仙人と呼ぶ。そのため、修験道の行者のうち、神通や呪力を身につけたとされる人はすべて「仙人」と呼ばれてしかるべきである。本書ではこの仙人について概観する余裕はないが、本章では、道教趣味をもった平安、鎌倉初期の文人たちが仙人と呼んだ人に焦点をあて、当時の人々に人気があった何人かを選んで紹介する。
なお、修験道については、古典的な和歌森太郎の『修験道史研究』や宮家準の『修験道思想の研究』(春秋社)を参照されたい。
泰澄
泰澄は、越後の国古志の郡に天武天皇の十一年(六八二年)に生まれた。泰澄には、多くの別名があり、加賀の国の人という伝もある。この泰澄は厳しい修行の後、数々の験力を発揮できるようになる。
養老元年(七一七年)にお告げにより白山に入り、禅定の後、その目の前に十一面観自在尊(十一面観音)が姿を現わした。泰澄は、ここに白山の霊地たることを明らかにして、それを詩賦に認めた。
また吉野山では、一言主神の縛をほどこうとした(一言主神は役小角の呪いで葛の蔓で縛られていた)。試みに、呪文を唱えると、縄がほどけた。ところがとたん、激しい叱責の声がして、縛はまたもと通りになってしまった。これは役小角の仕業に違いない(役小角についてはココ参照)。
泰澄は、諸国の神社を訪ね、その本地を問うてまわったと言われている。
行叡
行叡の出生は何も知られていない。また出家ではなく行叡居士と呼ばれている。彼は清水寺の土地のもともとの地主であった。白髪がぼさぼさで七十歳あたりに見えたが、実は数百歳を超えていた。妻をめとらず、米(あるいは五穀)断ち、常に修行にはげんでいた。今、清水寺にある滝は、彼が呪力で噴出させたもので、もとは黄金色の水が落ちていたという。
あるとき、報恩大師がこの黄金色の水をたどってこの地にやってきた。すると行叡は、「おぬしの来るのを待っていた。この土地の地主となって、仏法を広めてほしい」と言い自らは東の国に旅立った。
後年、坂上田村麻呂がこの土地に縁を持ち、今日の清水寺が開かれた。行叡は地主の神、地主権現として、清水寺の境内の一隅に祭られた。
教待
教待は、園城寺の地主のようなものあったとされるが、本当にいた人であるかどうかは疑わしい。
園城寺は、比叡山延暦寺の第五代座主である智証大師円珍により再興された。教待は、この園城寺再興の話に登場する。
智証大師が自らの門弟を延暦寺から独立させようと思いその拠点となる寺を探していた。すると、近江の国志賀郡に大友皇子が建立した古寺に行き当たる。この寺のありさまを見ていると、石筒を立てた井戸が一つあった。そこに僧が現れ井戸の説明をした。
「この井戸はただ一つにも関わらず、三井と呼ばれております」
大師がその名の由来を問うと、僧は、
「天智、天武、持統の三代の天皇がお生まれになったとき、この井戸の水が産湯に使われました。そこで三井と呼ばれるようになったのです」(抜粋)
大師は、もう少し様子を見ようと思い、僧坊を覗くと、一人の老僧がいた。しかしそこには魚の鱗や骨が食い散らかされ、大変な悪臭を漂わせていた。
大師は、隣の僧坊の僧に話を聞くと、老僧は長い間琵琶湖の鮒ばかり食べているという。大師は、これは何かあると思い老僧に話を聞いた。
すると、「自分がこの寺に住んでからすでに百六十年になり、この寺が作られたのは百八十年まである。この寺は弥勒菩薩がこの世に現れるまで維持すべき寺であるが、維持する人がいなかった」、と言った。そして、「今日幸いに大師がお出で下された。この寺は大師にお譲りいたします」と言って引きあげてしまった。
大師があらためて老僧の様子をよくよく見ようと荒れた僧房引き返すと鮒の鱗や骨に見えたものは、実は色鮮やかな蓮華を鍋で煮て食い散らかしたものであった。
驚いて隣の房の僧に訊くと、この老僧は教待和尚といい、人の夢のなかでは弥勒菩薩として現われたもうのであるという。大師はこれを聞いてますます貴く思い、園城寺を引き受けの件を堅く約束して比叡山に帰った。(抜粋)
報恩
備前の国の人であるが、生年は不明。三十歳で吉野山に入り修行をし、勅命により孝謙天皇の病気平癒の祈祷のため受戒得度し、報恩と名乗った。
報恩大師は、行叡居士から京都東山の一角の土地を附属され、清水寺の基を築いた(行叡の項参照)。
報恩大師は、数十歳を超える年齢になっても、若々しい顔立ちを保ち、歩いて二、三日かかる小島寺と清水寺の間を、飛ぶように歩き、朝方小島寺をでて、昼頃には清水寺に到着した、と伝えられている。
日蔵
日蔵は、出自不明であるとも、京都の文人三善清行の弟であるとも、朱雀天皇の御子であるとも伝わっている。
十二歳で出家し、金峰山の椿山寺に入り道賢と称した。六年間の修行の後、京都の東寺で真言密教を習得し、また金峰山に戻って修行し、数々の験力を身につける。
日蔵には、冥界遍歴の逸話がある。彼は金峰山で修行中に気絶し冥界を遍歴した。そこで蔵王菩薩に出会い「日蔵九々。年月王護」の八文字の札をもらったという。そのため名を道賢から日蔵に変えた。
この日蔵には冥界遍歴の他にも数々の逸話があり、ここではいくつかの逸話が取り上げられている。
蓮寂
蓮寂は、出自、生没年ともに不明であり、実在の人物であるかもわからない。蓮寂の物語は『大日本国法華経験記』の序文にあるため、平安時代中期の人ということになる。多くの仙人が吉野の大峰山や金峰山などの、奈良盆地の南方の山々で修行したのに対して、蓮寂は、京都の比叡山の北方にある比良山で修行し仙人となった。また、この話の「葛河の伽藍」は、明王院葛川寺である。
琵琶湖西岸の葛河の伽藍(寺)に一人の沙門(僧)がいた。彼は、食を絶つなどの難航苦行にはげんでいた。ある夜、沙門の夢に僧が現れ、比良山の峰に一人の仙人僧がいるので、その仙人のもとに赴き、結縁せよと、告げた。
そして沙門は比良山に分け入り、法華経の読誦する声を耳にする。喜んだ沙門は声を頼りに進み、仙人が住んでいる場所にたどり着いた。仙人は、血も肉も枯れ尽くし、ただ骨と皮だけになっていて、この世のものとは思えないほど異様であった。
仙人は沙門に、おぬしから立ち昇る俗気の煙が目に沁みるから、いましばらくは少し離れたところに住まわれよ、七日過ぎた後にここにおいでなされ、そのとき、共に語りあおう、と告げた。
沙門はそこから少し離れたところを居処と定めて座していると、昼となく夜となく仙人の法華経を読誦する声が聞こる。すると、心身が爽快になり、喜びがわいてくるようになった。
沙門は、七日たった後、仙人のもとに参上する。仙人は「わしはもと興福寺の僧で、名は蓮寂という。あるとき法華経に「ひっそりとして人の声のきこえないところで、法華経を読誦するならば、そのとき私(釈尊)は、あらわれる」とあるのを見て、寺を去り、山林に身を隠し修行を重ねて、ついに仙人になった」と言った。そして沙門に、ここに尋ねて来るのも少なからぬ縁があるから、ここに住んで仏法の修行をしなさい、と勧める。
沙門は仙人のすすめに従おうと思ったが、仙人になるということは並大抵のことでなく、この沙門は仙人になる器ではなかった。そう自覚した沙門は、深く恥じ入り結局山を降りることにした。仙人の神通のおかげで沙門は、その日のうちに葛河の伽藍に戻ることができた。
関連図書:
和歌森太郎(著)『修験道史研究』、平凡社(東洋文庫)、1972年
宮家準(著)『修験道思想の研究(増補決定版)』、春秋社,1999年。

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