教信 – 隠逸の人
宮元 啓一 『日本奇僧伝』より

Reading Journal 2nd

『日本奇僧伝』 宮元 啓一 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

教信 – 隠逸の人

今日のところは、教信きょうしんである。教信は、「非僧非俗」で念仏修行をしたさきがけの僧で、浄土真宗の教祖親鸞が自らの生き方のモデルとして終生敬慕した人である。読み始めよう。

愚禿釈親鸞

浄土真宗の開祖、親鸞しんらん上人は、大著『教行信証きょうぎょうしんしょう』の後書きの中で、「愚禿釈親鸞ぐとくしゃくのしんらん]」と名乗り、またみずからを「非僧非俗ひそうひぞく」と称した。(抜粋)

親鸞は自らを「愚かな禿頭の仏教僧親鸞」と名乗り「出家でも無ければ在家でもない」と称している。この言葉には親鸞自身の深い確信が読み取れる

われわれ凡夫は、煩悩だらけであるため、難しい教えや厳しい修行にはついていけない、たとえついていけるとしても、さとりのような境地に達することなどおぼつかない。しかし、阿弥陀仏の慈悲は、われわれのような劣悪で惨めな衆生しゅうじょうこそ、かえって救いの手を差し伸べて下さる。親鸞は自らの人生体験の中からこのような考え方に至った。

親鸞上人は、比叡山の南部で、二十年間にわたって聖教に参究しながらも、煩悩の火をいっこうに消すことができないことを悩み抜いた末、ついに法然ほうねん上人の専修せんじゅ念仏に活路を見出して、山を下り、出家の身でありながら公然と妻帯した。(抜粋)

親鸞が敬慕した教信の生き方

この親鸞上人が、みずからの生き方のモデルとして終生敬慕してやまなかった人が、賀古駅かこのうまやの教信沙弥しゃみであった。(抜粋)

教信には、あまり確かな記録は残っていない。はじめ興福寺の学僧であったが、やがてその空しさをさとり、播磨はりまの国の賀古に移り住み、聖教すて妻帯し子を儲け、極貧の中で「非僧非俗」といった風体で、常に念仏を唱えて生活していた。周囲の人からは阿弥陀丸あみだまると呼ばれ親しまれ、貞観八年(八六六年)に八十歳で没したという。彼は、親鸞より四百年前の人であることになる。

著者は、「非僧非俗」で、熱心に仏道を貫いた人としてかなり古い時代の人であり、このような古い時代に念仏に身を挺した人物がいたことは驚きであると、言っている。

教信が勝如に寿命をつげた話

摂津の国に勝尾寺という寺があり、そこに勝如しょうにょという僧が住んでいた。勝如は、道心が深く、実に十年にわたって無言の行を修していた。勝如は、弟子の童子と会うこともまれで、ましてや、他の人に会うことなどまったくなかった。

ある日の夜中、勝如のもとに誰かがやって来て戸を叩いた。しかし、勝如は無言の行をしていたので、話すことができない。そこで咳払いをして外の人に合図を送った。すると、その人はこう告げて立ち去った。

「みどもは、播磨の国、賀古の郡の賀古の駅の北のほとりに住まいなす、沙弥教信と申す者でござる。長年、南無阿弥陀仏を唱え、極楽に往生したいと願っており申したが、本日、その念願の極楽往生を遂げ申した。聖人(勝如のこと)もまた、某年の某月某日に、極楽からの迎えをお受けになるでござろう。このことを告げ申そうと存じて参った次第でござる」(抜粋)

それを聞いた勝如は大いに驚き、無言の行をやめ、弟子の勝鑑しょうかんに見に行かせた。

勝鑑が賀古につくと、小さな庵の前に一人の死人が横たわっていて、犬や鳥がその身体を食い荒らしている所に出くわした。そして庵の中で老女と一人の子供がいて、共に悲痛な声で鳴き悲しんでいた。勝鑑がわけを尋ねると、老女は、「そこに横たわっているのが夫の教信であります。長年念仏を唱えることを片時も怠りませんでした。その夫が今しがた亡くなり、それが悲しくて泣いているのです」と言った。

勝鑑は、勝尾寺にもどり、事の子細を勝如に報告した。勝如は、それを聞いて、涙を流し悲しみつつ、心に測り知れない畏敬の念を起こした。

著者はこの後の展開について、文献による違いにふれた後、『後拾遺往生集』に載っている逸話について書き進める。

ここで勝如は、自分が十数年続けている無言の行よりも、念仏の方が勝っていると思った。それから、里に出て人々に大乗の教えを広め、自ら念仏を唱えるだけでなく人にも勧めた。

つまり、念仏という行をよりどころとして、勝如が大乗の自利利他の慈悲の菩薩行ぼさつぎょうに乗り出したのは、ひとえに教信の影響であるというわけである。(抜粋)

教信の評判は、時代が下るに従い高まり、親鸞上人のみならず一遍いっぺん上人もこの教信を敬慕していたという。


関連図書:親鸞(著)『教行信証』、岩波書店(岩波文庫)、1957年

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