乱世の群像(前半)
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第三部 — 乱世の群像 — 三国志の人々(前半)

今日のところは、「乱世の群像」である。ここでは、『三国志演義』を中心とした「三国志」世界で活躍したキャラクターを、「君主」「軍師」「猛将」「老将」「女性」に分け、それぞれを紹介している。

この章は、2つに分け”前半“では、「君主」「軍師」「猛将」を、”後半“では「老将」「女性」をまとめることにする。それでは読み始めよう。


三国志は陳寿正史『三国志』羅漢中『三国志演義』があり、どちらも群雄割拠の時代に魏呉蜀の分立した疾風怒濤の時代を描いている。さらに日本では、湖南文山こなんぶんざん『通俗三国志』、さらには吉川英治『三国志』など『三国志演義』を土台とした物語が大変な人気を得ている。

このような「三国志」世界の人気は、複雑なストーリー展開の面白さとともに、多種多様なキャラクターを持つ登場人物が生の軌跡の鮮烈さによるものである。

曹操と劉備 — 光と影 英雄二人の対象の妙

「三国志」世界の二人のリーダー、曹操と劉備は、まったく対照的なキャラクターの持ち主である。

曹操は、宦官とゆかりの深い出自であるが、宦官派と対立した清流派知識人たちに早くから逸材と注目された。彼は文武両面で多くの優秀な人材を集めた。「赤壁の戦い」で敗れ天下統一こそならなかったが北中国を支配し圧倒的な勢力を誇った。

曹操自身は、軍事家であり政治家でもあったのみならず、兵法家でありそして詩人でもあった。このように多彩な才能をきらめかせる曹操はまさに光り輝く英雄だったのである。

しかし、合理的であったため、曹操は時に酷薄さを見せつけることがあった。曹操を悪玉とする『三国志演義』の物語世界は、この英雄と姦雄の二面性を持つ曹操を圧倒的存在感によって描いている。

一方、劉備は漢王朝の末裔とのふれこみながら、実際には貧窮のどん底で成長した。劉備には知力もなければ軍事的能力もなかった。しかし妙に人をひきつける魅力があり、剛勇無双の関羽・張飛、そして趙雲らが惚れ込んだ。彼は一貫の終わりという状況の中で諸葛亮と出会い、ついには蜀王朝の皇帝にまでのぼりつめる

劉備は、損得を度外視しあくまで信義を重んじる任侠的な論理で生きた人だった。部下を底抜けに信頼し、彼らに思う存分、力をふるわせた。そういう劉備もやはり乱世の英雄であったのである。曹操がみずから光り輝く英雄ならば、劉備はみずからは影となって臣下を輝かせる影の英雄であった。

光の英雄曹操と影の英雄劉備。この二人の対照的リーダーの対立と葛藤を軸としつつ、『三国志演義』ひいては「三国志」世界はダイナミックに展開される。(抜粋)

荀彧・諸葛亮・周瑜 — 主君を選んだ軍師たち

曹操には荀彧じゅんいく、劉備には諸葛亮、孫権には周瑜しゅうゆという、有能な軍師がいた。

荀彧は、後漢末の清流派知識人のホープである。彼は、当初、袁紹えんしょうに仕えていたが、袁紹には度量がないと見限り、曹操の軍師となった。曹操も「きみは私の子房しぼう(前漢の高祖劉邦の名参謀張良ちょうりょうのあざな)だ。」と大喜びをして荀彧を迎えた。そして、荀彧が曹操側につくと清流派知識人が次々と曹操の傘下に入った。

そして、それ以降、二十一年間、政治・軍事の両面にわたり曹操を支え続けた。しかし、晩年、権力欲を強めた曹操との関係が悪化し、荀彧はついに自殺に追い込まれた

曹操の「子房」は有終の美を飾ることができず、不幸な大軍師として退場したのである。(抜粋)

諸葛亮は、劉備の「三顧の礼」を受け、劉備の軍師となった。劉備はこのまたとない軍師を得て、彼の「天下三分の計」にもとづいて、ついには蜀の皇帝となった。

諸葛亮は、劉備亡き後も息子劉禅を輔佐しながら、魏に挑戦し続け、五十四歳で陣没するまで戦い続けた

生のエネルギーを燃焼し尽くした諸葛亮は、荀彧とは対照的に幸福な大軍師だったといってよかろう。(抜粋)

孫権の軍師、周瑜は、孫権の兄孫策そんさくの親友だった。孫策が二十六歳で夭折ようせつすると、周瑜は後継者の弟孫権の軍師となった。そもそも孫策と周瑜は主従というよりも同志的感情で結ばれていた。そのため周瑜が孫権の軍師となったのは、センチメンタルな情緒からではなく、孫権にそれだけの価値があると見込んだからである。

周瑜は「赤壁の戦い」の劇的な大勝利を収めるなどの功績をあげるが、荊州の領有権を巡り諸葛亮と火花を散らしているうちに、三十六歳で急死した。

閃光せんこうのように「三国志」世界を駆けぬけた天才周瑜は、まさに未成の大軍師といえよう。(抜粋)
不幸な大軍師荀彧、幸福な大軍師諸葛亮、未成の大軍師周瑜。彼らが描いた生の軌跡は各人各様だが、「主君」とすべき対象を主体的に選び、賭けた点では共通している。彼らはみずから選んだ道に存在を賭け、めいっぱい生きた。なんと爽快なことではないか。(抜粋)

典韋・関羽・周泰 — キラ星のごとく居並ぶ猛将

「三国志」物語の世界では、一騎当千の猛将が多く登場する。

曹操軍では、親類の曹仁そうじん夏侯惇かこうとん夏侯淵かこうえん、曹操の親衛隊の典韋てんい許褚きょちょ、その他、張遼ちょうりょう張遼ちょうこうなどである。

そしてなかでも初代の親衛隊長典韋の活躍はめざましい。曹操が張繡を襲撃したさい、思わぬ不覚をとり、あわやというところで典韋が大奮闘して敵をくい止めた。そのとき典韋は、体の数十か所に傷を負い、大声で敵を罵倒し立ったまま息とだえた。

劉備軍の猛将といえば、関羽・張飛、さらに趙雲である。『三国志演義』では、とりわけ関羽の活躍が多い。

曹操に条件降伏した後、劉備の居所が判明するや、曹操軍の六人の守将を血祭りにあげ五つの関所を突破して、劉備のもとに駆けつけたさいの阿修羅のような姿は、壮絶きわまりない。(抜粋)

また、曹操軍と孫権軍に挟み撃ちにされ、孤立無援のなか麦城ばくじょうに立てこもった姿は悲壮であった。著者はこの部分を翻訳したさい、涙が止まらなかったと言っている。

劉備軍の関羽と張飛はともに破滅型の猛将であったが、後の述べる趙雲は安定したタイプの猛将であった。

孫策・孫権軍には、程普ていふ黄蓋こうがい韓当かんとうをはじめ太史慈たいいしじ甘寧かんねいなどの猛将がいる。しかし、周瑜魯粛陸遜りくそん陸抗りくこうなどの軍師と比べると、呉の将軍はやや迫力に欠ける。これは、呉の軍団が、突出した個人的武人ではなく、総合力・習合力に強みがあったからである。

そのなかで猛将として印象的なのは孫権の親衛隊の周泰しゅうたいである。彼は孫権の危機を何度も救い満身創痍であった。

『三国志演義』の世界で、典韋・関羽・周泰のごとく強烈な印象を与える猛将は、総じて絶体絶命の危機において、死と背中合わせになりながら、不屈の攻撃精神を炸裂さくれつさせる。けっして諦めず最後の最後まで闘う彼らの姿には、時代を超えて人の心をうつものがある。(抜粋)

初出掲載誌:(現代「私の三国志」二〇〇三年五月―六月、朝日新聞夕刊東京))

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