『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第三部 — 民衆世界の三国志(その3)
今日のところは、「民衆世界の三国志」“その3である。陳寿が正史『三国志』を書いてから、千年の間、民衆世界での三国志は、変遷を重ねていった。これまで”その1“、”その2“において、そのような三国志物語の変遷を追ってきた。そして、いよいよ羅漢中による『三国志演義』が書かれる。この『三国志演義』は、その後多くの読者を得るまでになるが、民衆世界の三国志が終わったわけではなく、その後も依然として伝承され続けていた。
今日のところ“その3”では、羅漢中の『三国志演義』が書かれた後の民衆世界の三国志物語の変遷である。それでは、読み始めよう。
羅漢中の『三国志演義』の登場
羅漢中の『三国志演義』は、晩唐依頼、元代の『平話』や元曲に至るまで、民間芸能の世界で脈々と伝えられてきた三国志物語を収集し、これらを正史『三国志』をはじめとする正統的な歴史資料とつきあわせて整理・集大成したものである。山東省太原出身の不遇な知識人羅漢中の手で、民衆世界の三国志の極端に荒唐無稽な要素は抜き去られ、その語り口にも彫琢が加えられて、堂々たる物語文学『三国志演義』が誕生したのだった。(抜粋)
この『三国志演義』は羅漢中の歴史的教養と知性のフィルターを通して精練された。善玉劉備と悪玉曹操を軸として、多彩な登場人物を組み合わせて、後漢末の乱世が魏・呉・蜀の三極に収斂していく過程を描いている。
羅漢中は、『平話』の張飛に変わり、関羽をクローズアップしその描写にも豊かな文学性を持たせている。このように『平話』に見られる語りの粗雑さを精練した。しかし、一方諸葛亮孔明の魔術的性格を誇張したり、関羽の怨霊を出現させたりと、語り物の手法も十分に駆使している。
『三国志演義』はいわば語り物から物語文学へと、絶妙のバランスを保ちながら、きわどい綱渡りを演じきったところに、成立したのだった。(抜粋)
『三国志演義』は、二百年近く写本の形で伝わり、明代になって初めて刊本が出版された。その後、種々の刊本が刊行され多くの読者を得ている。
『三国志演義』以降の民衆世界の三国志物語
しかし、『三国志演義』が誕生した後も、明から清、さらに現代にいたるまで民衆レベルの三国志物語は依然として伝承し続ける。
清の時代の揚州は、商業により賑わい多くの講釈師がいた。その揚州の状況を評した随筆に『揚州画舫録』がある。ここで著者は、この本に載っている『三国志演義』の語りの様子とどうように、当時人気のあった『水滸伝』の語りの部分を紹介している。そして次のように言っている。
講釈師は、『三国志演義』や『水滸伝』の刊本が広く流布したのちも、聴衆をひきつけるべく独自の解釈を交えつつ、いきいきとした身振り語り口をもって、ナラティヴな物語世界を創出しつづけた。宋元以来の語り(騙り)の伝統は、こうして途絶えることなく受け継がれてきたのである。(抜粋)
講釈師の語りの様子
この講釈師の語りの様子を垣間見られる記述が田村実造の『慶陵調査紀行』にある。この本は、一九三一年に契丹族の遼王朝の遺跡調査に向かった内蒙古調査団の記録である。この記録に記されている大道芸人の姿が以下である。
わが国では、講談を語るというのを、中国では、ことさらに読むというが、その言葉どおりに、この「説書(講釈師・引用者注)」は、読み本を左手にもち、右の手元においた木をカッチカッチと使いながらの演出である。かれを取り巻いて、大勢の者が地面にしゃがみこんで聞きほれている。講談師は立てひざで、本から眼をはなさず、早口に読みたてるが、緊張した顔で、眉毛や顔の筋肉をことさらに動かし、しぐさは付けぬが、会話の部分だけにはせりを使う。(抜粋)
このように晩唐以来、千年の時を経てなお民衆世界の三国志は、字の読めない階層にまで広く親しまれていた。
そして現代でも、テレビではえんえんと『三国志演義』の連続ドラマが放映され、『演義』の連環画(小型の劇画集)が盛んに読まれるなど、三国志物語は相変わらず隆盛を極めている。
テレビドラマの『演義』は現代の元曲、連環画は現代の『三国志平話』といってもよかろう。時うつりメディアのかたちはどんなに変わっても、三国志物語はまさしく現在形で、中国の人々の心に生きつづけているのである。(抜粋)
関連図書:田村 実造(著)『慶陵調査紀行』、平凡社、1994年
初出掲載誌:(小松健一著『三国志の風景』解説、九五年九月、岩波新書)


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