民衆世界の三国志(その1)
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第三部 — 民衆世界の三国志(その1)

今日のところは、「民衆世界の三国志」である。前回「陳寿の「仕掛け」」では、陳寿「正史 三国志」を書く際、建前の上では魏を正統としているが、様々な仕掛けにより、自らの故郷である蜀の正統性を浮き彫りさせたことが書かれていた。

その後三国志は長い間民衆世界で語り継がれ、そして千年以上たってから、羅漢中により蜀を正統とする『三国志演義』に結実する。ここでは、「正史 三国志」から「三国志演技」までの間の三国志世界の変遷を追っている。

この章は、3回に分けてまとめるとする。それでは読み始めよう。


三世紀末に西晋せいしん時代、陳寿ちんじゅ(二三三 – 二九七)によって正史『三国志』が書かれてから、十四世紀中頃の元末明初、羅漢中らかんちゅう(生没年不詳)の手で小説『三国志演義』が完成されるまで、千年以上の時間差がある。この間、民衆世界では語り物や戯曲などさまざまなジャンルで、三国志物語が語り伝えられ、時の経過とともに大いなる発展を遂げた。(抜粋)

晩唐のころから始まる民衆世界の三国志

この民衆世界の三国志は、九世紀中頃、晩唐の頃にすでに語り物の形で流布されていた。

晩唐の詩人、李商隠りしょういん驕児きょうじの詩(ヤンチャ息子の詩)には、客が帰った後、

さっきの客は張飛ちょうひみたいなヒゲをはやしていたとあざけったり
鄧艾とうがいみたいにつっかえながら話していたと笑ったりする(抜粋)

という部分がある。もちろん張飛は虎ひげのトレードマークで有名であるが、魏の将軍で吃音だった鄧艾は、それほどでもない。つまり晩唐のこの時期には、子どもにまで三国志物語が広く流布していたことを推測させる。

これ以前、八世紀の盛唐の頃すでに、詩のなかで三国志時代の人物や事件が取り上げられるようになる。盛唐の代表的詩人の杜甫とほは諸葛亮をテーマとして二十首以上の詩を作り、李白りはくも「赤壁の戦い」を歌った詩を作っている。しかし、このころの詩に歌われているのは、正統的な歴史資料の範囲を出ず、民衆世界の三国志物語の影を見出すことはできない

これに対して李商隠と同じ晩唐の頃の詩人杜牧とぼくになると、だいぶ様相が違ってくる。彼の詩には、「赤壁の戦い」に際し「二蕎にきょう」姉妹の話が出て来るが、この姉妹と曹操を結びつける発想は、正史の歴史的資料にはなく、『三国志平話へいわ『三国志演義』などのフィクションの作品のものである。つまり杜牧には語り物の作者に似たスピリットが認められる

以上あげた李商隠や杜牧の詩、ことに前者の『驕児の詩』は、九世紀の晩唐のころ、すでに語り物としての三国志物語が存在したことを充分にうかがわせる。しかしながら、これらはなんといっても間接的資料にすぎない。(抜粋)

北宋時代の三国志物語・『説三分』

民衆世界の三国志物語について具体的な記述が、あらわれるのは十一世紀の北宋ほくそうになってからである。

北宋の大詩人蘇東坡そとうばのエッセイには、講釈師が子供たちに取り囲まれながら、三国志物語を語っている場面がでてくる。そして、講釈師が劉備が負けたと言うと子供たちは顔をしかめて泣き、曹操が負けたと言うと大喜びしたと書かれている。つまりすでにそのころから蜀が正統であるという三国志の捉え方が広まっていた。

この蜀正統論と劉備善玉、曹操悪玉の配役は、後の羅漢中の『三国志演義』の基本をなす構想である。蘇東坡のエッセイは、すでにこの時点で『演義』の基本構想の原形が、形づけられていたことを示している

次に東京夢華録とうけいむかろく孟元老もうげんろう著)には、盛り場の演芸として、霍四究かくしきゅう説三分せつさんぶんが取り上げられている。この『説三分』は三国志物語であり、霍四究がその第一人者であるということで、すでに三国志が専門的なジャンルとして確立されていたことを示している。

このに『東京夢華録』が書かれたころは、北宋最後の皇帝で政治的無能者だった徽宗きそうの失政がたたって、社会不安が激化し、王朝が衰弱していった時代だった。そして、その時代を舞台とした小説に水滸伝すいこでんがある。そして、この『水滸伝』には、北宋時代の状況や出来事がそのまま表されているケースが多い

水滸伝には、黒旋風李奇こくせんぷうりきが、寄席で講談を聞くシーンがあるが、そのとき、講談師が語っていたのが、『説三分』つまり三国志物語であった。この場面は当時の盛り場の寄席で語り物がどのように語られていたかを、臨場感ゆたかに表わしている。

しかし、この『説三分』はすでに失われ、その内容がどのようなものであったのかは、今は知るすべもなくなってしまっている。


関連図書:
陳寿(著)『正史 三国志』1~5、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1992~03年
羅漢中(著)『三国志演義』1~4、講談社(講談社学術文庫)、2014年


初出掲載誌:(小松健一著『三国志の風景』解説、九五年九月、岩波新書)

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