蜀の五虎将軍(その3)
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第二部 — 蜀の五虎将軍(第3回)

今日のところは「蜀の五虎ごこ将軍」の”その3“である。”その1“、”その2“において、蜀の五虎将軍(関羽かんう張飛ちょうひ趙雲ちょううん馬超ばちょう黄忠こうちゅう)の出自劉備との関連性パーソナリティーについて考察された。今日のところ”その3“では、五人の武略とその人気について追っている。それは読み始めよう。

五虎将軍の武略

関羽の武略

関羽が圧倒的な武力の持ち主であった。関羽が曹操のもとに身を寄せていた「白馬の戦い」のとき、袁紹軍の猛将顔良がんりょうに曹操軍が圧倒されたていると、さっそうと馳せ参じた関羽があっという間に大軍の真っただ中にいる顔良を刺し殺し首を討ちとってしまった。

しかし、著者はこのように個人的武力においては他の追随を許さない関羽も、戦局全体を見渡す戦略的な面では、欠けているところもあった、と言っている。

関羽の最後の戦いとなった曹仁との戦いにそのような面があらわれている。関羽が魏の荊州軍司令官の曹仁の駐屯地の樊城はんじょうを急襲するが、曹仁は守りを固めて籠城を続けなかなか陥落しない。そうしているうちに、魏の天才軍事家呂蒙りょもうが策をめぐらし、関羽の荊州の根拠地公安こうあん江陵こうりょうを奪取してしまう。これにより樊城の戦いに敗れた関羽は、根拠地に戻ることもできず挟み撃ちに遭い、結局呉軍に捕まり惨殺されてしまう。

この敗戦の最大の原因は、公安に駐屯していた士仁しじんと江陵に駐屯していた麋芳びほうの二将がかねがね関羽から不備を咎めらえていて、処罰を恐れて、あっけなく呂蒙に降伏してしまったことである。大切な根拠地を士仁、麋芳のような手合いに任せたことで、取り返しのつかないことになった。

弟分の張飛が、君子を大切にし、小人を冷遇したが、関羽は、身分の低い兵卒には優しく、士大夫したいふには傲慢にふるまう傾向があったのである。

張飛の武略

張飛に関しては武略うんぬんするまでもなく、その傑出した個人的武力の強さだけが光る「長坂の戦い」において、劉備軍のしんがりを引き受けた張飛は、川を盾として橋を切り落とし、矛を小脇に抱えて目をいからせ、「身はこれ張益徳なり。来りて共に死を決すべし」と叫んだ。するとその勢いに恐れをなした曹操軍がひるみ、その隙に劉備一行は、首尾よく逃げおおせたのである。

趙雲の武略

関羽と張飛に比べると趙雲の場合は、武力と共に際立った統率力もあった。武力については、「長坂の戦い」で劉備の長男劉禅を懐に抱え血路を開いた奮闘ぶりや、漢中争奪戦で曹操の大軍と渡り合い「全身これ肝っ玉」と称賛された戦いをしたことにより明らかである。

そして、諸葛亮が第一次北伐に失敗し退却する時、馬超率いる街亭がいてい守備軍が壊滅状態になったのに対し、趙雲率いる箕谷きこく守備軍の方は、一糸乱れず敗軍指揮したため、損失を最小限に食い止めることが出来きた。このことによりその統率力がなまじのものでないことが解る。

馬超の武略

馬超は、関羽・張飛と同じタイプの武将である。個人的な武力に特徴があるが、敵の裏の裏をかくといった知的な戦略性はまったく見られない

その武力に関しては、曹操軍と対峙し曹操をきりきり舞いさせるなど、他に類を見ないものであるが、賈詡かくの策略(ココ参照)に引っかかるなど、知的な戦略性に欠けている

黄忠の武略

黄忠の戦いぶりは「老いの一徹」というしかない。漢中争奪戦で定軍山に陣取る曹操軍のリーダー夏侯淵を攻撃した時はまさにハイライトであった。


著者は最後に五人の武略をまとめて次のように評している。

以上のように蜀の五虎将軍は、おのおのユニークな味わいをもつ傑出した武人であり、その個人的武力は甲乙つけがたいが、ただ、プロフェッショナルな武将としての総合的な力量は、趙雲に一日の長があるように思われる。(抜粋)

五虎将軍の人気

日本では、「三国志」の登場人物で最も人気があるのは、諸葛亮であるが、中国では、古来から関羽・張飛の方がずっと人気が高い。関羽に関しては、曹操が惚れ込むなど、惚れ込む人間が後を絶たず、とうとう商人の神様となってしまった。また、八方破れの張飛は、庶民的エネルギーを体現した人であり、中国では人気がある。

さらには、現代の日本の若い人のあいだでは、自分の役割をしっかりと守る趙雲が、地に足のついた人間的な存在感から好む傾向がある。

五虎将軍のあとの二人馬超と黄忠に関しては、先の三人に比べると人気という点でも見劣りがする。このような人気の差は、劉備軍団のなかでの五虎将軍の存在価値、実質的なランクの差とほぼ正確に対応している。


初出掲載誌:(歴史群像シリーズ「群雄三国志」九二年三月、学研)

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