『星の王子さま』(後半)
中村 圭志 『ファンタジーに秘められた宗教』より

Reading Journal 2nd

『ファンタジーに秘められた宗教』 中村 圭志 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

第①回 『星の王子さま』 肝心なことは目に見えない(後半)

今日のところは「第①回 『星の王子さま』」の”後半“である。”前半“では、『星の王子さま』の宗教性についての説明やそのあらすじ、執筆当時の世界情勢などの背景が説明された。それとともに「星の王子さま」は飛行士自身ではないかということが説明された。

今日のところ“後半”では、その宗教性についてさらなる考察がつづく。それでは読み始めよう。

「大人」の論理とキツネの教え

『星の王子さま』では、「子供」と「大人」の対比がある。

「大人」の論理は、王子さまが小惑星で出会った六人に代表されている。彼らの「権威主義」「自己陶酔とうすい」「自己憐憫れんびん」「数による管理」「無批判な規則遵守じゅんしゅ」「抽象的な知識による支配」などがその典型である。

その対極にある「子供」の論理を示しているのが、キツネの挙げた三か条である。つまり

  1. 肝心なことは目に見えない
  2. 時間をかけてつくった絆は大切なものとなる
  3. 絆のできた相手に対しては責任を果たさなければならない

である。

この意味のカギとなるのが②の「時間をかけて」の部分であり、キツネはこれを「飼い馴らす」「絆」「儀式」と言い換えて説明している。

絆ができたとき、王子さまにとってこのキツネは他のキツネとは違う存在になり、キツネにとって王子さまは他の子供たちとは違う存在になるはずです。(抜粋)

この絆が③の「責任を果たす」につながるのは、明白である。

ここで①の「肝心な」ことについて考えると、それは人間同士の交わりに深く関係があると考えられる。

飛行士は「家も、星も、砂漠も、それが美しいのは、見えないものが潜んでいるからだ」と言っている。そして、飛行士は、幼いころの思い出として、宝物が隠されていると言い伝えのある自分の家には、魔法の輝きがあると言っている。

魔法はいつでも、親しい交わりとして飼い馴らしの儀式が作り出した特別な思い出と関係しています。(抜粋)

つまりこの飼い馴らしの儀式により世界中に輝きを見ることができるようになるそこに「肝心なこと」がある

これが、権威、数字、規則などで人を管理したり利用したり操作したりする「大人」たちの論理とは対極にある、人と人とのふれあいや絆という聖なる教えです。そういうものをすなおに受け入れ、学ぶことができるのが、サン=テグジュペリの言うところの「子供」なのだと思われます。(抜粋)

キツネの教えに潜む宗教性

伝統的な宗教の多くもこの「キツネの教え」によく似たことを説いている。②の「時間をかけて絆をつくる」や③の「責任を果たす」の教えも含まれている。

そして①の「肝心なことは目に見えない」については、宗教で説く神仏や魂もふつうの意味では目に見えない。

それは人と人との交わりを含む人生経験を通じて、「恩寵おんちょう」のような作用や状態として認識するものです。(抜粋)

キリストと王子さまの類似点

『星の王子さま』の井戸の水を飲んで渇きをいやすシーンは、キリストの「最後の晩餐ばんさんのシーンと類似している。どちらもこの後、別れなければならない。

また、この井戸のシーンは、キリストが井戸のそばで一人の女性と象徴的な会話をする挿話そうわ(「ヨハネによる福音書」4章)を想起させる。この挿話のテーマは、「信仰が永遠の命の源泉である」ということである。

この井戸のシーンのあと、王子さまは飛行士の見ている前で蛇の毒により倒れ、姿を消してしまう。

神学によれば、キリストは神の子として人類全体の罪を背負うため死にました。王子さまは一個の人間の魂として、自らと絆のある薔薇への責任を果たすために「死」の関門をくぐり抜けます。聖書では一人一人の人間がそれぞれなりの苦難や責任を負うことを「十字架を背負う」と言います。そういう意味で、王子さまもまた「十字架を背負った」のです。(抜粋)

サン・テグジュペリの「遺言」

『星の王子さま』は、大人となり人生に挫折した飛行士が、砂漠で立ち往生し、自分自身の魂(王子さま)と出会うことにより、大切な気づきを得て、またもとに人生に帰還する、という魂の遍歴の物語である。

これはまた、作者サン=テグジュペリ自身のとっては、当時猛威もういを振るっていたナチズムやファシズムという戦いへの決意を表明するものでした。(抜粋)

しかし、これは時局的な問題を超越する展望を持っている「霊的なファンタジー」である。作者の思想は、戦いを落としどころにするのではなく、自らの魂(王子さま)と対話することで「肝心なこと」を見出すことを目指している。数や管理の支配の論理から抜け出すために、それぞれの絆と責任の論理を探ることを勧めているのである。

最も切迫しときに最も迂遠うえんな道をたどるのは、とても宗教的な思考です。キリストの言葉では「狭き門を通れ」というのがこれに近いかもしれません(新約聖書「マタイによる福音書」7章13。)(抜粋)

ファンタジーを読む意味

第1回の締めくくりとして、ここで著者は、宗教とファンタジー(文学)の違い、ファンタジーを読む意味について私見を述べている。

これまで見てきたように『星の王子さま』にはキリスト教的な要素が散在さんざいするが、それはあくまで著者が自身の経験から最も重要な戒めを抽出しただけである。そして、それが「キリスト教的な価値観」と共鳴しているのである。

伝統的な宗教と、宗教的な(スピリチャアルな)内容をもつ文学との違いは、宗教が基本的に神仏の教えへの「帰依きえ」ないし「信じる姿勢」を求めるのに対し、文学は作者自身の思いの表明に留まろうとしているところにあります。読んだ人がそこから気づきを得られるなら、作者としては嬉しいでしょうが、どのように読むかはあくまで読者の自由であるという姿勢を文学は守っています。それが文学というものの約束ごとです。(抜粋)

そして、一般文学とファンタジーの違いについては、ファンジーは古代や中世のものは「魔術的世界観」に似せて描かれ、現代のものは、それを「パラレルワールド(現実と成功して存在するような異世界)」に見せることで、「別の視点」を持ち込もうとしている。その「別の視点」により「目に見えない肝心なこと」を喚起しようとしている。

さらにファンタジーを読んであれこれ思い巡らす過程は、それそのものが「時間をかける」プロセスとなっている。なにもかもスピーディーであることが求められる現代でこのスローな行為そのものに、「肝心なこと」が潜んでいる

この原則は、本誌でこのあと取り上げる『ムーミン』『銀河鉄道の夜』『ハリー・ポッター』などの他のファンタジー文学についても言えるはずです。いずれも単にファンタスティックなだけでなく、スローな読書をもってこそ味わえる作品ばかりです。それぞれが「目に見えない肝心なこと」を示しているのです。それぞれに違う、というのがまた面白いところです。(抜粋)

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