『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第三部 — 三国志世界の末裔たち
今日のところは、「三国志世界の末裔たち」である。ここでは魏・呉・蜀の三国志世界の英雄たちの末裔を追っている。それでは、読み始めよう。
陳寿の手になる『三国志』の列伝の末尾には、必ず個々の人物の子孫についての記載があり、ままこれに詳細な裴松之の注が付されている。今これらをもとに、『晋書』や魏晋の名士のエピソード集『世説新語』なども参照にしながら、三国すなわち魏・蜀・呉の英雄たちの子孫がたどった生の軌跡を追ってみよう。(抜粋)
魏の場合
ここでは、魏の軍師荀彧と曹操と親戚であった部将の夏侯淵の子孫を追っている。
荀彧の末裔
曹操の軍師荀彧は、約二十年にわたり曹操を補佐したが、晩年権力志向を強める曹操と対立し、最後は自殺のやむなきに至った。この荀彧の息子たちもみな優秀で、魏王朝の高官となった。しかしただ一人、荀粲だけは異色だった。
荀粲は、兄たちが儒家思想を信奉したのに、道家老荘思想を好んだ。傲慢不遜で言い合い放題であり、女性は才智よりも容貌が大事だと公言していた。そして、曹一族の将軍曹洪の娘が美人だと聞くと、さっそく結婚相手に選んだ。しかし、彼はすこぶる純情であり美人妻が病死すると悲観にくれ、一年あまりで衰弱死してしまった。
後漢末に宦官の専横を批判した荀彧をはじめとした清流派知識人は、曹操の傘下に入り、曹操政権の中核となった。そしてその子孫は魏王朝、西晋、東晋王朝の中核となり、貴族層を形成していった。
そして、さらに時代が下ると、自己保身のために術策を弄する陰謀家の荀勗があらわれる。彼は、彼は西晋王朝の重臣であったが、ひたすら初代皇帝の武帝(司馬炎)に媚びへつらい、武帝の意を汲み暗愚な息子の恵帝を後継者に押し立て、権力欲の強い賈后を恵帝と結婚させ、結果として西晋王朝を崩壊させた。
実はこの荀勗、人格の卑しさや処世の狡猾さとはうらはらに、言葉・文物・食物など、芸術・学問・趣味の領域では、抜群のセンスの持ち主だった。(抜粋)
夏侯淵の末裔
荀勗のような文官の子孫は、代々つづき貴族化していくが、武官・武将の場合はおおむね一代限りである。ここでは、そのなかで目立ってドラマティックな夏侯淵の子孫について書かれている。
夏侯淵の息子たちは、司馬氏が主導権を握る魏末になると立場が悪くなってくる。息子の夏侯覇は、ついに蜀に投降してしまう。この夏侯覇の父方の従妹が蜀の張飛に捕まり、その妻となった。彼女の娘が劉禅の皇后となっていたため、劉禅は投降してきた夏侯覇を大変優遇したという。
夏侯淵の従子である夏侯玄は、武将の出身ながら、高い教養を身につけ、端正な顔立ちもあり、魏きっての名士として人気が高かった。しかし、彼の存在に神経をとがらせた司馬師と司馬昭は、結局口実をつけて夏侯玄を逮捕し処刑してしまった。
こうして魏の武将のうち、きわだった子孫をもつ夏侯淵の血統も歴史の闇に埋もれていったのだから、乱世の論理は非常なものである。(抜粋)
蜀の場合
ここでは、蜀の軍師だった諸葛亮の子孫と諸葛亮の兄で呉に仕えた諸葛瑾、従弟で魏に仕えた諸葛誕の子孫を紹介している。
諸葛亮の長男諸葛瞻は、父ほどではないものの優秀であった。彼は呉軍との激闘中に息子(諸葛亮の孫)の諸葛尚とともに戦死している。しかし、諸葛瞻の二男の諸葛京は、蜀の滅亡後も、西晋の地方官として地味で目立たない生涯を送っている。
呉に仕えた諸葛瑾の息子の諸葛恪は、若いころから大変に優れた人物であった。しかし、父の諸葛瑾は彼があまりに才気ばしっていることを危惧していた。諸葛恪は文武の重職を歴任していたが、孫権の死後、孫氏のお家騒動に巻き込まれ殺害され、族滅(一族皆殺し)の憂き目にあった。
魏に仕えた諸葛誕の場合は、魏末に征東将軍となっていたが、司馬氏の勢力が強まる状況のもと、呉と手を組み反乱を起こした。しかし結局、司馬昭に滅ぼされ凄惨な最期となっている。しかし、彼の息子諸葛靚は、父が呉と組んだ際に呉に人質として赴いた。その後、呉の重臣となり、呉が西晋に滅ぼされた後は、頑として西晋に仕えず、門を閉ざして蟄居を続けた。さらにその諸葛靚の息子の諸葛恢も、有能な人物であり、西晋滅亡後に江南に成立した東晋の重要な功臣として活躍した。
栄光に包まれた生涯を送った諸葛亮や諸葛瑾の子孫の多くは悲劇的な末路をたどり、自身は恵まれず非業に最期を遂げた諸葛誕の子孫はじりじりと上昇気流に乗った。なんとも皮肉な歴史のめぐりあわせというべきであろう。(抜粋)
ここに出てくる諸葛誕の一族については、「魏の諸葛一族」”前半”、”後半”に詳しく書かれている。(つくジー)
呉の場合
呉には、周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜と有能な軍師がいたが、このなかで目覚ましい活躍をしたのは陸遜の子孫だった。
陸遜の息子陸抗は、呉の最後を飾る存在であった。彼の死後六年で呉は西晋に滅ぼされるが、陸抗の息子陸機、陸雲は、ともに並はずれた文才の持ち主であった。とくに兄の陸機は三国六朝きっての美文家であった。しかし彼らは西晋の諸王の内乱(八王の乱)に巻き込まれて、殺害された。
実は、陸遜は孫権の兄で江東の小覇王と呼ばれた孫策の娘婿だったので、陸抗は孫策の孫、陸機兄弟は孫策の曾孫にあたる。三国時代の幕開けを飾った孫策の子孫もこうして悲運に翻弄され、消されていったのである。(抜粋)
初出掲載誌:(「図書」二〇〇四年六月、岩波書店)


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