『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]
第三部 — 陳寿の「仕掛け」
ここから第三部に入る。第三部では「多種多様な角度から、三国志世界にアプローチした八篇」が集められている。
今日のところは「陳寿の「仕掛け」」ある。正史『三国志』の著者陳寿は蜀の出身者であった。彼は魏から禅譲を受けた西晋仕えていたため、『三国志』の執筆にあたっては魏を正統として扱っている。しかし、そこには数々の「仕掛け」により自らの母国、蜀を称揚しようとしていた。そしてその「仕掛け」が功をせいし『三国志演義』世界では、蜀を正統とする路線となってゆく。それでは読み始めよう。
陳寿の魏を正統とするポーズと蜀を称揚する仕掛け
正史『三国志』は、全六十五巻中、「魏書」が三十巻、「蜀書」が十五巻、「呉書」がニ十巻である。そして、皇帝の伝記である「本紀」は、「魏書」だけにしかなく、劉備や孫権のように皇帝となった人々も「蜀書」「呉書」では、「列伝」となっている。
こうした構成からみて、『三国志』の著者陳寿(二三二 -- 二九七)が、魏を正統とするポーズをとっていることは、明らかである。(抜粋)
陳寿は、魏から禅譲受けた西晋に仕えていたからそれはむしろ当然である。
しかし、「蜀書」の記述方法を詳しくたどると、蜀の出身の陳寿がさまざまな「仕掛け」により母国・蜀を称揚していることが分かる。
「劉二牧伝」の仕掛け
「蜀書」の巻頭には「劉二牧伝」が置かれている。ここには漢王朝の一族劉焉、劉璋父子の伝記が置かれていが、陳寿はこの二人を厳しい態度で評している。これは、彼ら父子のマイナス評価を通して、真の蜀の支配者としての劉備の伝記「先主伝」と息子劉禅の伝記「後主伝」を際立たせている。
劉備の呼称にかかわる仕掛け
魏を正統とする建前から正式に皇帝としての扱いはできないものの、なんとかその高貴性をクローズアップすべく、陳寿は非常に苦心をはらっている。(抜粋)
この苦心に劉備らの呼称がある。今鷹真氏が指摘する(ちくま学芸文庫『正史 三国志』第一冊「解説」)ように、「呉書」において孫権を「権」と名指しするのに対して、「蜀書」では、劉備を「先主」、劉禅を「後主」と呼んでいる。
死去の際の用語では、魏の皇帝には日付・場所を明記し皇帝の死去をあらわす「崩」を使用し、呉の孫権の死去では、日付・場所を記さず用語も魏の高官なみの「薨」を使用する。それに対して劉備に対しては、日付・場所を明記し「殂」というあまり使用されない語を用いている。これにより魏皇帝なみの扱いを避けつつも、孫権とのランクの差を明確に打ち出している。
「先主伝」の仕掛け
「蜀書」の「先主伝」には、さらに根底的な逆転の仕掛けもまた、ひそめられている。(抜粋)
まず、劉備が漢中王になる経緯の書き方である。この時、まず伝統的な方法にのっとって劉備の臣下が彼を漢中王に推挙している。そして、形式的にではあるが、まだ皇帝だった後漢の献帝に上表文を捧げている。陳寿は、この上奏文を全文「先主伝」に採録している。この上表文には、曹操を非難しやむなく献帝の許しを得ずに劉備を漢中王に推挙したことを詫びている。
ここには、曹操を異姓の逆賊と決めつけ、劉備こそ漢王朝の血統につながる存在だとして、その正当性ならび高貴性を正面切って打ち出す姿勢が、歴然とあらわれている。(抜粋)
さらに、曹丕が献帝から禅譲の形で魏王朝を立てると、すぐに劉備の臣下は彼に上奏文を捧げ、帝位につくように懇願する。陳寿は、この上奏文二通もそのまま「先主伝」に採録している。この上奏文は帝位を奪ったと曹丕を激しく非難している。劉備はこの部下の勧進に従った形で、帝位につくが、その儀式で劉備自身が天帝に捧げた文章もまた「先主伝」に採録されている。
こうして劉備が漢中王になったさいの臣下の上表文や、皇帝に即位したさいの臣下の勧進文、ならびに劉備自身の天帝にささげる文書を余さず採録することにより、陳寿は、劉備がきちんとした手続きを踏んで、王から皇帝になったこと、さらに劉備こそが、劉氏の漢王朝の正統的な後継者であることを、暗黙のうちに示そうとするのである。(抜粋)
劉備と曹操、曹丕との違いと、朱彜尊の評価
これに対して、陳寿は曹操が献帝によって魏王に封ぜられたときには、その事実を記すだけで、詔勅すら採録していない。さらに曹丕が皇帝に即位したさいには曹丕にたいして上奏された魏の臣下の大量の勧進文を一切採録しっていない。そのため注者の裴松之は、膨大な引用を行ってその闕を補っている。
この陳寿の態度に着目し、清の朱彜尊は「陳寿伝」において、「陳寿は良史なり(りっぱな歴史家だ)」としたうえで、劉備と曹操や曹丕への扱いの違いを評して
これは昭烈皇帝(劉備)が漢の系統をうけつぎ、蜀にこそ天子の制度が与えられていることを明らかにしたものであり、ここに陳寿の良史としての苦心が見える。(抜粋)
と言っている。
このような記述態度・記述方法こそ、建前としての魏正統論のベクトルを、逆転させる蜀人陳寿の仕掛けである。
孫権への記述との違い
また、呉の孫権については、まず蜀と対立して自ら「臣」と称して魏と同盟を結んでいた孫権が、魏から策命を呉王に封じられときは、策命文を採録している。これは、劉備の臣下が献帝に対して上表文をささげたのと、その経緯の違いを意識的に際立たせるためである。さらに、孫権が帝位についた際には、臣下から勧進文がささげられ、瑞祥があったことが報告され、そっけなく孫権が帝位についたと書かれている。
夫人の尊称の違い
このほかにも「蜀書」には「魏書」「呉書」と対比すると、ひそかに蜀をランクアップさせる工夫がある。
陳寿は「蜀書」の「二主妃子伝」において劉備と劉禅の夫人をすべて「甘皇后」「穆皇后」のように皇后と称している。これは「魏書」の「后妃伝」と同列扱いである。しかし孫権ら呉の君主の夫人は単に「― 夫人」と称して格下げをしている。
陳寿は「蜀書」において皇帝の伝記である「本紀」を立てず、先主、後主と称し皇帝と称するのをひかえながら、その配偶者を「皇后」と称することによって、彼らが実質的に皇帝であることを側面から明らかにしているのである。
蜀書の終わり方の仕掛け
最後の仕掛けとして「蜀書」の最終巻がある。「鄧張宗楊伝」第十五には、建国以来剛直をもってなった鄧芝、張翼、宗預、楊戯の伝記が記載されている。しかし、単に伝記的事実には、この四人の伝記が有終の美を飾る最終巻に置かれる理由はない。
では、なぜ陳寿がこの第十五を蜀書のエピローグとしておいたのかについて、著者は次のように言っている。
ここに伝記を記載された楊戯の著す「季漢輔臣賛」をそっくり引き、これによって「季漢(最後の漢)」たる蜀のあまたの人材に対する賛美の念を、浮き彫りにしようとしたからだと思われる。(抜粋)
こうした「賛(人や物を称賛する文体)」のスタイルで一国の歴史を締めくくることは、極めて異例であり、陳寿の母国の歴史たる「蜀書」への思い入れが見て取れる。
陳寿のパトスと『三国志演義』への始まり
このように陳寿は、建前としては魏を正統視しながら、さまざまなベクトルを転回させて、蜀こそが真の正統に値するものだということを暗示させている。もちろん、陳寿は現実の力関係では、魏が圧倒的に優勢であったことを認識し、現実路線にたって著述をすすめている。
その理性的で冷静な認識をまま凌駕するのが、蜀に対する熱いパトスであり、「蜀書」にはそうした陳寿のパトスの痕跡が、くっきりとあらわれているのである。(抜粋)
後世、小説『三国志演義』は蜀正統論となるが、そのルーツは既に陳寿自身の執筆態度に始まっていると言っても過言ではない。
「諸葛亮伝」に見られる陳寿の敬愛
陳寿は、「諸葛亮伝」の「評」の中で「蓋し応変の将略はその長ずると所に非ざるか(思うに臨機応変の軍略は、彼の得意とするところではなかったのだった)」と述べたため、後世、諸葛亮に汚名を着せたと非難させたが、そうではなく陳寿は諸葛亮を非常に敬愛していた。その点についてはすでに吉川忠夫の詳細な論考がある(ちくま学芸文庫『正史 三国志』第二巻 解説)。
陳寿は、終始一貫して諸葛亮に対する深い敬愛をあらわしている。たとえば、「諸葛亮伝」の最後には自ら編纂した「諸葛亮集」とそれを上呈する際に添えた諸葛亮を激讃する上奏分まで添えている。また、「蜀書」の列伝の構成を見ると、第九巻と第十一巻に諸葛亮から信任された人々の伝記を収め、その間の第十巻には、諸葛亮に排除された人々の伝記を収めるなど、劉備亡き後の蜀は諸葛亮が中心であることが浮かび上がるようになっている。さらに、その排除された人々も自らを処罰した諸葛亮を恨むどころか、最後まで許してくれるだろうと期待し続けたと期され、諸葛亮の厳格な信賞必罰主義が部下を納得させるだけの合理性があったことを示した。
最後に著者は次のようにこの小文をまとめている。
陳寿は限定された条件のもとで、以上のようにさまざま記述の仕掛けを設け、主張したいことをパトスをもって敢然と主張しつづけた。「魏書」や「呉書」に比べてずっと薄くてボリュームのない「蜀書」に賭けた、陳寿の思い位の深さが脈々と生きつづけ、先にも述べたとおり、蜀を正統として諸葛亮に縦横無尽の活躍をさせる、『三国志演義』世界の大逆転劇につながっていったとすれば、これほどスリリングな展開はまたとないといってよかろう。(抜粋)
関連図書:陳寿(著)『正史 三国志』1~5、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1992~03年
初出掲載誌:(ちくま学芸文庫『正史 三国志 5』解説、九三年四月、筑摩書房)

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