軍事家諸葛亮 - 諸葛孔明(その3)
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第二部 — 諸葛孔明(その3)

今日のところは、「諸葛孔明」の“その3”である。劉備亡き後、諸葛亮は蜀の国力を充実させる。それは、宿願の中原ちゅうげんへの進出北伐)のためであった。しかし、北伐の前に、南方少数民族の平定のため出陣する(南征)。その目的は、北伐に先立ち後顧の憂いを無くすこと、南中から物資や兵員の補給・調達のためである。しかしそれには、もう一つ北伐へのリハーサルの意味があった。

今日のところ“その3”は、南征の経過とその意味である。それでは、読み始めよう。

軍事家諸葛亮 — 南征の意味

蜀の南中政策と雍闓の叛旗

諸葛亮は、蜀政権に叛旗をひるがえした南方少数民族の居住地域、南中諸郡を平定するために、自ら大軍を率いて出陣した。世にいう「南征」である。(抜粋)

諸葛亮は、劉備に「三分の計」披瀝ひれきしたさいに「西方の異民族をなつけ、南方の異民族を慰撫いぶする」ことの重要性を指摘している。蜀政権成立後も、少数異民族にたしては融和対策がとられ、南中は平穏な状態であった。

しかし、劉備がなくなり劉禅の即位という蜀政権の交替の間隙をついて、豪族の雍闓ようがいが反乱を起こした。すると、呉がこの雍闓を支援する構えを取った。すると、南中の豪族たちが続々と蜀に叛旗をひるがえした。

諸葛亮は、すぐには動かず、まず使者を呉に送り、蜀呉同盟を再度締結する。これは、雍闓らにとっては命綱を切られたことを意味していた。

南征の勝利

このような準備をしたうえで諸葛亮は、全軍を三つのコースに分けて、南征へ向かった。蜀軍は戦勝につぐ戦勝を重ね、南中の反乱を半年足らずで平定した。

南征の前に諸葛亮はまな弟子の馬謖ばしょくに意見を聞いた。馬謖は「用兵の道は心を屈服させる戦いを上策とし、武器による戦いを下策とします。どうか彼ら南中の反乱者たちの心を屈服させられますように」と述べた。この言葉に感心した諸葛亮は、他の反乱者のリーダーが戦死するなか、一人生き延びた孟獲に対してこの心を屈服させる戦術をとる。

諸葛亮は、孟獲を生け捕りにした後、彼に自身の陣営を観察させ、「この軍はどうだ」とたずねた。孟獲は「陣営を見て手の内が分かったので、この程度なら簡単に勝利できる」と答えた。すると、諸葛亮は孟獲を釈放してもう一度、戦った。しかし孟獲はまた敗北し捕まる。そして、孟獲を七度捕まえて七度釈放したところ、孟獲は立ち去らず「南人は二度と背かないでしょう」と心から諸葛亮に従うことを誓った。現地の住民に人気のある孟獲を心服させたことは、以後の蜀の南中支配に絶大な効果をもたらした。

そして、南中を平定した後は、そのまま住民のリーダーを登用し自主的に統治を任せる政策を取った。政権中心から遠く離れた異民族の地を強制的に支配しようとしても決して長続きしない。住民を心服させたうえで自治にまかせるのが良いという判断であった。また、南征の成功により、蜀は金・銀・銅・すずなどの鉱物資源、耕牛、戦馬などのさまざまな物資を得ることができた。また南中から兵員の調達も可能となる。

北伐のリハーサルとしての南征

諸葛亮は、この南征を後の「出師の表」にも書かれているように、北伐への必須の前提条件と考えていた。この南征の目的は、

  1. 北伐に先立ち、後顧の憂いを無くすこと
  2. 南中から物資や兵員を補給・調達すること

しかし、著者は「この南征は、次に目指す本格的な戦いである北伐のリハーサルだったように思われる」と言っている。

この時点で、諸葛亮は、戦略家・行政家としてのキャリアには輝かしいものがあったが、軍事家としての実戦経験はゼロに等しかった。そのため自ら大軍を率いて南中へ出陣し小手調べをしたのである。

この南中の作戦は、『三国志』に点在する記述を総合しても、不思議なほど血なまぐさくなく牧歌的である。これは、完全武装の蜀の大軍に対し、南中の反乱軍の装備は問題にならないくらいお粗末で、互角な戦いなど起こりようがなかったからである。

慎重な諸葛亮はこうして余裕をもって現場体験を積み、戦いのノウハウをマスターしたのであった。(抜粋)

初出掲載誌:(「歴史群像」九二年六月、学研+「ザ・ビッグマン」九二年八月、世界文化社)

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