「赤壁の戦い」と周瑜の活躍 - 周瑜伝(その3)
井波 律子 『三国志曼荼羅』より

Reading Journal 2nd

『三国志曼荼羅』 井波 律子 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

第二部 — 周瑜伝(その3)

今日のところは「周瑜伝」の“その3”である。北中国を制覇した曹操が、八十万の大軍勢を率いてやってくる。迎え撃つ周瑜と程普はそれぞれ一万の軍勢である。やがて赤壁に陣を引いた曹操軍を周瑜は火責めという作戦で壊滅させた。世に名高い「赤壁の戦い」である。それでは読み始めよう。

赤壁の戦い

八十万曹操軍の進撃

いよいよ曹操率いる八十万の大軍勢がやってきた。迎え撃つ呉軍は、左右のとく(指揮官)としてしゅうゆ程普ていふが任じられそれぞれ一万の軍勢を率いて立ち向かった。この出陣には、賛軍校尉さんぐんこういとなった魯粛と客分の諸葛亮も同行する。

この程普は、初代孫堅以来の将軍であり、程公と呼ばれ人々から敬愛されていた。当初は、周瑜に対して反感を持ち、侮辱的態度を取っていたが、周瑜の謙遜した態度に打たれ、ついには「周公瑾とつきあっていると、芳醇ほうじゅんな酒を飲んだように、酔ってしまったのもわからない」と語るほど信頼するようになった。

緒戦は、呉軍有利にすすみ、警戒した曹操軍はやや後退し赤壁に陣をひいた。そして、戦況は膠着状態になる。

この間に劉備が陣中見舞いに訪れ、諸葛亮や魯粛と会見をしたいという求めがあった。しかし周瑜は「諸将が部署についているため、持ち場を離れることはできない、とその求めを断った。

赤壁の火責め

この膠着状態を打破する奇襲作戦を、孫権軍生え抜きの老将黄蓋が提案する。

黄蓋は、「現在、敵は多勢で見方は無勢ゆえ、持久戦は無理です。しかし曹操軍のようすを見ると、その軍艦は前後あい連なっております。これなら焼き打ちをかければ、敗走させることができます」と、周瑜に提案した。(抜粋)

周瑜と黄蓋が編み出した作戦は、まず黄蓋が曹操に降伏を申し出て油断させ、そして、油をしみこませたおぎや枯葉を積んだ船を数十艘準備する、黄蓋は降伏を装って船団を率いて長江を渡り、船団が曹操軍の陣営に近づいた時船に火をつけ、曹操軍の船団を焼き払う、というものである。この作戦は大成功し、燃え盛る火の中で配送する曹操軍に劉備軍と周瑜軍がもう追撃を加え、曹操軍に壊滅的な打撃を与える。

周瑜の率いる呉軍はわずか二万の軍勢をもって、公称八十万の曹操の大軍勢を完膚なきまでに叩きつぶし、曹操の天下統一の野望を打ち砕いた。まさしく奇蹟としか言いようがない。(抜粋)

『三国志演義』での描かれ方

この劇的な奇襲作戦は、後世の人々のイマジネーションを刺激し『三国志演義』では、黄蓋の降伏に華々しい潤色を加えている。

周瑜と黄蓋は、老獪な曹操を信じさせるために、芝居を打った。作戦会議の席上で、黄蓋が降伏論を唱え、それに対し周瑜は激高し、公衆の前で罵倒し血みどろになり気絶するまで棒で殴ったのである。この一部始終を見ていたスパイによりこの一見は曹操に報告された。

この『三国志演義』の展開はもちろんフィクションだが、スパイを逆利用して情報を流し、偽装工作したとするあたりは、いかにも迫真性があっておもしろい。(抜粋)

また、赤壁の火攻めの成功は、おりからの強風も大きく影響したが、これも『三国志演義』では、諸葛亮が「七星壇」を築いて天に祈って、風を呼び起こしたと描かれている。


ここの黄蓋を打ちのめして相手欺くってのが、いわゆる「苦肉の策」ですよね。確かに、『三国志演義』にありました。(つくジー)

なぜ曹操は破れたのか

ここで著者は、なぜ曹操が敗れたのかについて考察し、そこにはジェネレーションギャップがあったのではないかと、言っている。「赤壁の戦い」当時、曹操が五十四歳に対して、周瑜、三十四歳、孫権、二十七歳、魯粛、三十七歳、諸葛亮、二十八歳である。つまり、曹操は、息子世代の彼らを見くびっていたのではないかというのである。


初出掲載誌:(「歴史群像」九三年十月、学研)

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