語られなかった弱虫たちへ:遠藤周作 –– 日本人は神を愛せるか(その2)
岡本 亮輔 『キリスト教入門の系譜』より

Reading Journal 2nd

『キリスト教入門の系譜』 岡本 亮輔 著
[Reading Journal 2nd:読書日誌]

第5章 日本人は神を愛せるか ―― 裁きの神と赦しの神の相剋(その2)

今日のところは「第5章 日本人は神を愛せるか」の“その2”である。ここでは、作家の遠藤周作が取り上げられている。遠藤は、父なる神であるキリスト教の神と日本人の間にある大きな壁の存在に悩み、弱虫たちの視点で母なる神を見出だすに至る。それでは読み始めよう。

語られなかった弱虫たちへ — 遠藤周作と母なる神

遠藤周作の生立ちと『白い人』『黄色い人』

遠藤周作は、一二歳で母とともにカトリックの洗礼を受けた。そして、慶応大学在学中は、岩下壮一(ココ参照)が創設した学生寮で暮らす。その学生寮に来ていた舎監の吉満義彦に文学を教わる。この吉満は、内村鑑三の門下だったが、岩下壮一に出会いカトリックに入信したキリスト教思想家である。

家庭的にも知的にも、当時の日本では珍しいくらいキリスト教的な環境で遠藤は成長した。(抜粋)

そして、二七歳でキリスト教文学の研究者となるために遠藤はヨーロッパに旅立った。そこで遠藤は、フランス文学の背後にある歴史と宗教の重みに思い知らされた。すでに作家となる決心をしていた遠藤はそこで肺を患った。

三年の留学で骨身にしみたのは、ヨーロッパには、「日本人の感覚ではついていけぬ何かがある」ことだった(『遠藤周作による遠藤周作』)。(抜粋)

そして帰国後に、『白い人』で芥川賞を受賞し、同年『黄色い人』を発表した。この二つの初期作品には、すでに遠藤文学の主題が読み取れる。つまり「裏切りを題材に日本人と白人の間の善悪や神観念の違いをえぐりだし、キリスト教が日本人にとって異質な信仰であることを突きつける」ことである。

傑作『沈黙』

そしてその主題をさらに追及したのが、傑作『沈黙』である。ここでは、『沈黙』のあらすじが書かれている。

ロドリゴの棄教に場面である。捕縛されたロドリゴは、棄教した恩師のフェレイラにひき合わせられる。

恩師は、日本の宣教はそもそも不可能な企てたったと告げる。ザビエル以来、ヨーロッパ人宣教師が何十年かけてキリスト教を広め、最盛期には数十万人の信者を得た。だが、日本人はキリスト教の唯一神など信じていなかった。なぜなら、日本人には、人間と完全に切り離された絶対神が理解できない。禁教や迫害がなくても、日本にキリスト教は根づかなかった。日本は、「恐ろしい沼地」であり、キリスト教は根づかなかった。日本は「恐ろしい沼地」であり、キリスト教という苗を植えても、すぐに根から腐ってしまう、とフェレイラは語った。(抜粋)

そして、日本人信者の拷問の苦しむ声を聞かされていたロドリゴもついに踏み絵を踏む。

ロドリゴは、踏み絵に描かれたキリストが「踏むがいい、お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい、私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」と語っているように感じ、その顔に足を置く。(抜粋)

『切支丹の里』:弱虫たちの信仰

『沈黙』は、様々な読解を可能とする世界文学の金字塔であるが、ここで著者は、『沈黙』執筆のために訪れた長崎での取材過程を記録した短編小説や随筆を集めた『切支丹キリシタンの里』に注目する。その理由は、この書が『沈黙』の主題である「殉教できなかった弱虫」たちを単刀直入に語っているからである。

キリスト教では、信仰を貫いた殉教者は英雄である。しかし、踏み絵を踏んで転んだ者たちは裏切り者である。しかし遠藤は裏切り者たちに心を寄せる。

遠藤は、フェレイラやロドリゴの実在のモデルを丹念に調査し彼らの人生をたどっている。そして、ロドリゴの所在を密告したキチジロウについては、『切支丹の里』所蔵の短編「雲仙」にその過程が書かれている。

遠藤が棄教者に惹かれるのは、もし同じ状況に置かれたならば、彼もおそらく同じようにしたと思うからだ。(抜粋)

気高い殉教者でなく、背教した弱虫たちに自らを重ねたのである。

白い人の神は厳しく、どんな責め苦でも転ぶなと説く。遠藤は、こうした姿勢を内村鑑三のキリスト教として遠ざけた。内村の信仰は強者の信仰であり、そもそも強者には宗教はいらない。

遠藤は、戦士・内村と対極にある弱虫の信仰を、隠れキリスタンの中に見つけたのである。(抜粋)

隠れキリシタンとサンタ・マリア

隠れキリシタンは、外国人宣教師を父なる神と重ねて畏れていた。父なる神は転んだ者を責め立てた。そのため、転んだ者は

  1. キリスト教を棄教する
  2. キリスト教に留まり別の場所を探り当てる

の二つの選択肢しかなくなってしまう。

その後者の道を選んだ時、転んだ者を慰め赦してくれる母なる神が必要となる。禁教下で信仰する隠れキリシタンの信仰は、男性のキリストより女性のマリアの方が多かったと遠藤は目に留める。

遠藤は、こうした父の宗教から母の宗教への移行こそが、キリスト教の日本人化だったと論じる。日本人は仏の慈悲にすがったため、厳しい父との対峙ではなく、無償の愛で包んでくれる母を体質的に求める。フェレイラを絶望させた「沼地」の正体は、日本の宗教的風土の根底にある母への思慕だった。(抜粋)

『沈黙』は、ベストセラーとなったが、カトリック界からは、拒絶された。遠藤の書いたフェレイラやロドリコは、史実に基づくが、カトリック教会では汚点である。

遠藤は、父なる神を母なる神で置換しなければ日本人は神を受け入れないとして、カトリックとは別物の隠れキリシタンに可能性を見出だし、日本人とキリスト教の関係を根本から問い直したのである。(抜粋)

無能無力なイエス:『死海のほとり』『イエスの生涯』

その後も遠藤は、母なる神の探求を続けた。そして『死海のほとり』と『イエスの生涯』を刊行する。前者はイスラエルに取材した遠藤の自伝的小説、後者はイエスの評伝である。

イスラエルの地は、荒涼としてどこまでも荒野が広がっている。こうした大地からは罰する神しか生まれ得ない。しかし

イエスはこの荒涼とした現実に抵抗した、と遠藤は語る。(抜粋)

イエスの時代には、救世主を名乗った無数の人がいた。しかし、なぜイエスのみが記憶され語り継がれたかを、遠藤は追究した。遠藤は、福音書のイエスの奇跡ではなく、イエスが人々を慰める物語に注目する。

社会から排除された病者や娼婦に手を差し伸べ、その傍かたわらに座るイエス。その姿こそ、弟子たちが目撃し、語りついだ事実の核心ではなかったのか、と遠藤は思い至る。(抜粋)

遠藤が聖地で見たイエスは、弱々しく貧相で何一つ奇跡を起こせずただ病者や貧者に寄り添っているだけの無能無力の人である。

しかし遠藤は、この「無能無力」に深い意義を認める。(抜粋)

イエスはみなに見捨てられ、何もできずに死んだ。しかしイエスだけは裏切られても誰も見捨てなかった。そんなイエスの優しさは、イスラエルの厳しい荒野にはなかったものである。

だから、十字架の前後で弟子たちは一変し、殉教覚悟で宣教を始めたのではないか、と遠藤は語る。弟子たちは「子供にとって失った母がその死後もいつも横にいる気持ちと同じような心理」状態になり、十字架刑の後も、イエスがまだそばにいるように感じたのでないか。(抜粋)

遠藤は、聖書を弱い弟子たちの変身物語と読みかえて、日本人の感性に響くイエス像を創造した。


関連図書:
遠藤周作(著)『白い人・黄色い人』、講談社(講談社文芸文庫)、1996年
遠藤周作(著)『沈黙』、新潮社(新潮文庫)、1981年
遠藤周作(著)『切支丹の里 新装版』、中央公論新社(中公文庫)、2016年
遠藤周作(著)『死海のほとり』、新潮社(新潮文庫)、1983年
遠藤周作(著)『イエスの生涯』、新潮社(新潮文庫)、1982年

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