西行 – 反骨の人
宮元 啓一 『日本奇僧伝』より

Reading Journal 2nd

『日本奇僧伝』 宮元 啓一 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

西行 – 反骨の人

今日のところは、反骨の人の最後、西行さいぎょうである。この本は、“奇僧”伝とあるだけに、これまであまり・・・いや、ほとんど知らない僧ばかり登場した。ここでなんと超有名な西行の登場である。さて、どんな逸話があるだろうか?それでは、読み始めよう。


西行は、歌人としてあまりにも有名で、その伝記、随想、研究書の類の出版物は山ほどある。古風な言い方をすれば、「汗牛充棟もただならぬ」ということになるわけで、今さらここでくだくだしく述べるつもりはない。ごく簡潔に、「奇」僧らしい雰囲気がふわっと漂っている逸話を垣間かいま見るだけに止めることにする。(抜粋)

西行の出家

西行は、元永元年(一一一八年)に生まれ、建久元年(一一九〇)に没した。俗名は、佐藤義清のりきよである。父は射家(弓道家)の出であった。西行は、北面の武士となるが、歌道に才能を発揮し、後鳥羽上皇の寵愛を受ける。

ところが、思うところがあって、二十三歳のある日、突如妻子を捨てて出家した。(抜粋)

何も知らずにうれしそうにまとわりついてくる幼な児を蹴飛ばして出奔したという。「西行」という法名は、西方極楽浄土に往生することを願って付けた。

西行と頼朝の逸話

西行が東大寺再建のため、奥州に砂金の勧進に赴く際、鎌倉の鶴岡八幡宮の前に通りかかった。たまたま源頼朝が、参詣にやって来た。頼朝は鳥居のほとり、一人の老僧がうろうろしているのを怪しみ、供のものに名を問わしめた。すると西行であると名乗った。頼朝は、よろこび参詣のあと、和歌のことなどを話し合いたいとの旨を伝える。

頼朝は参詣を終えると、西行を館に招き、歌道や弓馬のことなどを、訪ねた。「西行は、弓馬については、先祖代々の兵法書などは出家の時に焼き捨て、さらに戦の流儀は罪業の因であるからすっかり忘れてしまった。歌のことについては、これは花や月に対して、感興が湧いたとき、三十一字にこれを綴るだけのことで、奥義というものはない。」と答える。

しかし、頼朝が熱心に問うため、西行も折れて「弓馬のことならば少し心覚えがあるから」と兵法のことなどを詳しく語った。

翌日、頼朝は館を退出する西行に、銀細工の猫を賜った。西行は、この銀猫を拝受するが、門の外に出ると、あたりで遊んでいる子供にくれてやり道を急いだ。

この逸話に対して『扶桑隠逸伝』の作者元政げんせい上人は賛で次のように記した。

「名を好む人は、たとえ千金であっても受けとることがない。利を欲する人は、ただの一針たりとも捨てることがない。ところが、西行は、銀猫を易々と受け、しかもただちに捨てた。名利にこだわる心が西行にはまったくなかったことが分かるうというものである」(抜粋)

西行と文覚の逸話

西行の逸話で有名なものに文覚ぶんかくとの出会いがある。文覚は、北面の武士であったが、誤って人を殺してしまったことをきっかけに出家した人である。しかし、血気盛んなところがあり、高雄たかお神護じんご寺の営繕のため粗暴な振る舞いに及び、後白河法皇の怒りを買って伊豆に流罪にされた。すると、今度は源頼朝に取り入り、ついに神護寺の再興を実現する。しかし、やがて平家の遺児をかついで謀反を企てたとしてまた流罪に処された。そして憤慨の思いを抱きながら没したという。

この文覚は西行のことを気に入らなかった。隠遁の士は、いちずに仏道のはげむべきなのに、歌詠みにうつつを抜かしている、とんでもない野郎だと思っていた。そして、つねづね弟子たちに、おれか野郎をぶんなぐってやると言っていた。

ところがある日、西行が高雄山にきて、日も暮れたので文覚の房を訪れて宿を乞うた。これ幸いと文覚は喜んで、拳を構えながら戸を開けた。しかし、文覚は西行をまじまじと見ると殴るのをやめてしまった。文覚は西行をもてなし、親しく話を交わし、翌朝、食事までしつらえてから西行を帰らせた。

弟子たちが、どうしていつもの言葉を実行されなかったのですかと尋ねると

文覚の答えはこうであった。ふがいない法師どもだ。お前たちはあの人物の目付きを見なかったのか。あの西行がこの文覚に殴られるような目付きをしていたか、逆に、この文覚を殴るような目付きをしておったのだよ、と。(抜粋)

西行は文覚に「和歌は禅定の修行にほかならない」、また「自分は和歌によって仏道を得た」と言った。

西行が人骨から人を造ったいう逸話

西行が高野山の奥に住んでいる頃の話である。ある日、西行のある友人の聖が京に用事があると言って西行を置いて出かけてしまった。西行はその聖と美しい月夜の時には、月を見ながら語り合ったのだが、友人は西行を捨てて京に上ってしまった。

そんな時、信頼できる人から、人の骨を取り集め、人を造り出す方法を聞いた。それを聞いた西行は、さっそく広野に出かけ人の骨を繋いで何とか人を造った。

しかし、造った人間は、色が悪く、心というものがまったくなかった。声は出るが、絃管(楽器)のようであった。西行はこの出来損ないの人をどうしようかと思った。壊してしまえば殺生を積むことと同じであると考え、結局高野山の人の通わないところに捨て置いた。

西行は、いろいろと疑問に思えることもあり、上京の折りに以前に造り方を教えいただいた方のところに寄ったが、留守であった。代わりに伏見の前の中納言師仲卿もろなかきょうのもとを訪れたとき、その疑問を打ち明けた。すると「どんな造り方をしましたか」と尋ねられたので、造り方を子細に述べると、卿は「それは、反魂の術が未熟だったのですな」と答えた。卿も以前この秘術の流儀を受け、人を造ったことがあると言った。そして、その人物は現在も、卿相として活躍しているのであるが、これが誰かと口外すると、造った人も造られた人も溶け失せてしまうため口外できぬ、ということである。そして、卿は西行に、秘術の要点を細かく教えた。

しかし、西行は、考えてみればくだらないことであると反省し、それから人造りはいっさい行わなかった。

道教の秘術と仏教の考え方

ここで著者は、この話にはわが国には珍しい本格的な黒魔術らしい秘術に言及していると言っている。そしてその秘術は道教のものである。そして、この話は仏教とは全く関係ないものであることを指摘している。

極論すれば、道教の仙術の重要部分は、生死をもてあそぶことを目的としていると言える。「不老不死」の妙薬、秘術を探索するというのは、まさに生死を弄ぶことにほかならない。ここが、道教と仏教の一つの大きな分かれ目となろう。(抜粋)

仏教では、「生死」は、生きとし生けるもの誰にでも不可避なものであるという。そして人は悟りに達すると、この真実を身心の奥底から明に知る。そして、生死に囚われない自由を獲得し、「生死を離れた」と言われるのである。

これは、道教の言う「不老不死」とは違う。仏教の考え方からすると道教の「不老不死」を求めるということは、とりもなおさず生死に深く囚われているということになる。

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