増賀(後半) – 反骨の人
宮元 啓一 『日本奇僧伝』より

Reading Journal 2nd

『日本奇僧伝』 宮元 啓一 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

増賀 (後半) – 反骨の人

今日のところ増賀ぞうがの”後半“である。”前半“は、比叡山でも名高い学僧となった増賀が、名利を離れ仏道に専念しようと考え、狂人の振りをして、比叡山を下りるまでの逸話であった。そして、今日のところ”後半“は、比叡山を下ったのちの増賀の数々の逸話と、その臨終の様子である。最後に増賀の弟子の仁賀じんがの短い話が置かれている。

三条大后宮の受戒

一乗天皇の母君である三条大后宮おおきさいのみやは、尼になろうとして受戒の戒師を増賀に努めてもらおうと決めて、使いのものを遣わした。増賀は名利を徹底的に厭う人であるため弟子たちは、使いのものを殴りはしないかと気が気ではなかった。しかし増賀は、意外にもその申し出を引き受けた。

増賀が内裏に参上すると、宮は大変喜んだ。多くの貴人がいる中で、上人は眼光鋭くいかにも貴げな風情であった。しかし、どことなく体の具合が悪そうな様子であった。

行事はつつがなく進行し、いよいよ増賀に髪を切ってもらう段となった。そして滞りなく髪を切り終え、御簾の中から出ようとしたとき、

「他にいくらでも坊主はおるであろうに、わざわざ増賀をお召しとは、これはいったいいいかなることでござるか。どうにも納得がいかんのじゃが。ひょっとして、増賀のあれは大きい、なんぞとお聞きになられたということですかな。まあ、確かに人のものより大きゅうござるが、残念じゃのう、今は柔らかい練絹ねりぎぬのように、ふにゃふにゃになってしもうたわい」(抜粋)

と大きな声で口走った。これを聞いた貴人たちは、あっけにとられてしまった。

そして増賀は、袖を掻き合わせながら、「歳を取って、風が長引いたため下痢がひどいので、急ぎ退出する」と言って急いで退出した。そして、すくそこの西の対の簀子すのこにしゃがみ、尻をまくって、水桶の口から水を流すように、ひり散らかし始めた。

慈慧大僧正の行列に紛れ込む増賀

師の慈慧が大僧正に任命されたとき、そのことを賀謝するための行列が行われた。するとその行列の先駆さきがけの中に、干鮭からさけを剣として腰にぶら下げ、痩せこけた牝牛にまたがった増賀が紛れ込んだ。これにビックリしたお供の人が、怒鳴り散らし追いやったが、増賀は行列についてきて、

「わが輩を除いて、大僧正様の御車の先駆が務まる御仁が、ほかに誰かいるとでも思っているか!」(抜粋)

と叫んだ。お供の人も、これにはわらいころげずにはいられなかった。

増賀は、世俗化していた当時の仏教を批判し強烈なパンチを食わせたのである。このような行動は、エセ仏教とエセ坊主にうんざりしていた、当時の、そして後世の人々の喝采を浴びた。

しかし『発心集』では、「われこそが先駆をつとめよう」という増賀の声が、師の慈慧大僧正には「まことに悲しむべきことじゃ、わが師は悪道に入ろうとされておいでじゃ」と聞こえたとしている。そして慈慧は、車の中から「これも利生りしょう(衆生を救うこと)のためなのじゃ」と答えた。

著者は、このような話を『発心集』の著者鴨長明が付け加えたのは、慈慧に対する温情であったかもしれないと、言っている。そして次のように私見を述べている。

増賀はラディカリストであり、今日でもラディカリストの叫ぶことは、究極的に正しい。しかし、生活をしている人がラディカリストの言葉を文字どおりに受け止めると、それは生活の破綻を意味する。

人間、ひいては生きとしいけるものに対して「やさしさ」を持つということは、つまりは究極的なところを離れて妥協するということにほかならない。(抜粋)

増賀のようなラディカリストは優しさを持たない人である。そして、慈慧が俗物であったかどうかはわからないが、このような解釈を与えた鴨長明は、優しさゆえにラディカリストになれなかった人である。

大喧嘩する増賀

増賀がある人に法会ほうえのために説法を請われた。法会への道すがらどのような話をしたら良いかを考えていた。するとハッと気がつく、

「良い説法をするとかしないとかということは、名声を高めるかどうかということに関わっている。良い説法をしたいという心は、名声を望む貪欲どんよくの心に通ずる。今日わが輩を招いてくれた人との縁は、必ずや魔縁に違いない。危うし、危うし」(抜粋)

そして増賀は、法会の願主の気に障ることをあえてして、大喧嘩のあげくに、説法をしないで帰路についた。

多武峰での生活

増賀は、比叡山を下りた後、応和三年(九六三年)に多武峰に移った。この多武峰には護国院妙楽みょうらく寺という比叡山延暦寺の別院があったが、増賀は名利に悩まされるのを嫌い、麓の里の近い所に住み、多数の優秀な弟子を育てた。

死期を悟った増賀

増賀も八十余歳となり、いよいよ最期を迎えることになる。増賀は十数日まえに死期をさとり、あらかじめ弟子たちにそのことを告げた。人は僧侶であっても死期を悟れば、恐ろしさに身のおきどころもなく、ひたすら命を惜しむものである。しかし、増賀はこぼれるばかりの笑みを浮かべていた。増賀は語った。

「皆々方、喜んで下され。拙僧が長年願望して参ったところが、今ようやくかなえられようとしておる。この迷いと汚れの現世を捨て、西方の極楽浄土に往生することが、もう目の前にやってきたのじゃ。いやはや、これほど嬉しいことはござらぬわい」(抜粋)

増賀、臨終のとき

こうしていよいよ入滅の時がやってきた。増賀は、甥の龍門聖人弟子たちに「拙僧が死ぬのは今日この日であるが、ちょいと碁盤を取ってきてくれないか」と言った。弟子が碁盤を持ってくると、龍門聖人を呼びつけて「碁を一番打とうぞ」と言う。龍門聖人がどうしたことだろうと思い碁盤の前にすわり互いに十手ばかり打つと、「よいよい、もう打つのはやめだ」と言う。龍門聖人が「どうして碁を打とうと思ったのですか」とおずおず尋ねると

「ずうっと昔、拙僧が小さな法師であったとき、人が楽しそうに碁を打っておるのを見たことがあるのじゃが、だた今、念仏を唱えながら、ふとそのときのことを思い出してな、そうじゃ碁を打とう、と思ったのじゃ。だからじゃよ」(抜粋)

と答えた。

次に増賀は弟子に「泥障あおり(泥よけと飾りのため馬の鞍につける革ないし毛皮)を一つ探して持ってきてほしい」と言う。弟子が持ってくると、「それを紐で結んで、首にかけよ」と言った。弟子が首にかけると増賀は生き絶え絶えのなか、左右に手を伸ばし「ふる泥障をまきてぞ舞ふ」という歌を歌い出した。それを二、三回繰り返すと「もうよい、これを取り除けてくれぬか」と頼んだ。これもまた龍門聖人がどうしてそのようなことをするのですか、と尋ねると

「ずいぶんと若かった頃のことじゃ。隣の房で小さな法師どもがたくさん集まって、わいわい笑いながら騒いでおる。何事かと思うて覗いてみると、一人の小さな法師が、泥障を首に懸けて、
  胡蝶胡蝶とぞ人は云えども
  古泥障をまきてぞ舞ふ
と歌いながら舞っておるのじゃ。これは面白いと思ったのじゃが、すっかり忘れてしもうておってのう、それをたった今思い出したのじゃ。これはぜひやりたいものじゃと思うて、ちょうと歌ってみたのじゃ。今はもはや思い残すことはまったくない」(抜粋)

と答えた。

その後、増賀は奥の部屋に入り、法華経を読誦し、手は金剛合掌の印を結んで坐りながら入滅した。

(付) 仁賀

最後に、付として、増賀の弟子の仁賀にんがの短い話が置かれている。

仁賀は、もともと興福寺に住していたが、後世ごせを思い、深く厭離えんりの心をおこして名利を完全に捨て去った。そして、狂病があるといって寺役をさぼり、寡婦を妻にしたと偽ったりして、ついに興福寺を逃れ、多武峰の増賀に弟子入りした。

一生の間、念仏を修し、最後の時を迎えても乱れることがなかったと言われている。


関連図書:鴨長明(著)『新版 発心集』 上、下、角川書店(角川ソフィア文庫)、2014年

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