増賀(前半) – 反骨の人
宮元 啓一 『日本奇僧伝』より

Reading Journal 2nd

『日本奇僧伝』 宮元 啓一 著
 [Reading Journal 2nd:読書日誌]

増賀 (前半) – 反骨の人

今日のところ増賀ぞうがである。著者は、わが国に奇行の人多しといえでも、ここの登場する増賀ほど数多くの、しかも痛快無比な逸話の持ち主はいないであろう、と言っている。この増賀については、”前半“と”後半“の2回に分けてまとめることにする。それでは読み始めよう。

増賀が生まれてまもないころの逸話

増賀が生まれて間もないころ、一家は坂東に下った。そのとき、増賀を抱いて輿に乗っていた乳母が、居眠りをしてしまい増賀を落としてしまった。しばらくして乳母が目覚めて、増賀を落としてしまったことに気がつき大騒ぎとなった。両親は気が動転しながらも、人の往来もずいぶんあるため、踏み殺されて命はないと覚悟を決めていた。

しかし、数十町ばかり引き返すと、狭い道のくぼみの中に増賀がいた。そして、両親はその夜夢をみる。

泥の上に美しい飾りつけた宝床があり、微妙な色合いの天衣が敷かれ、その上にこの赤子がいる。端正な姿と顔立ちをした四人の天の童子が、その床の四隅に立って、合掌しながらこう唱えた。
仏口所生子ぶつくしょしょうし(仏の口から生まれた御子です)
是故我守護ぜこがしゅご(だから、自分たちが守護いたします)
ここで目が覚めた。(抜粋)

増賀の最初のことば

古来より、神仏の申し子は口が遅いという考えがあったが、増賀も口が遅くしゃべれるようになったのは四歳を過ぎてからであった。ところが、その最初のことばは、

「われは、比叡山に上がり、法華経を読み、一乗の道を習得して、聖人たちの跡を継ごうと思う」(抜粋) 

であった。これを聞いた両親は、腰が抜けるほど驚き、鬼神でもとりついたのではいかと、不安に襲われ、嘆き悲しんだ。そしてその夜、母親が夢を見た。

夢の中で、母親は子供を抱いてお乳を飲ませていた。するとそのとき、子供が突然成長しはじめ、たちまち、三十歳あまりの僧侶となり、手に巻物のお経を取った。
そのかたわらに、いかにも貴げな僧侶がいて、このように告げた。
「驚き怪しんではならぬ。ゆめゆめ疑ってはならぬ。この子は、宿世すくせから因縁があって、この世で聖人になる定めになっているのである」(抜粋)

両親は、この子が、将来聖人になることを確信して、おおいに喜んだ。

比叡山での修行

増賀は、十歳で比叡山に上がり、後の天台宗座主で大僧正の慈慧じえ(良源)の弟子となる。増賀は、法華経を熱心に習い受け、たぐいまれな学問僧として、山中でも有名となった。しかも学問のみならず、法華経の読誦と、日に三度の懺悔ぜんげの法を怠らず、慈慧の増賀を自分のもとから手放すことはできないと思ったほどである。

ところが、こうした間に、増賀には、ひたすら仏の道をまっとうし、この世の名声とか利益とかから徹底的に逃れようとする心が芽生え、堅固になり、ひたすら後世ごせのことを思いいたすようになった。(抜粋)

増賀は、山中のみならず、京の市中でも評判となった。冷泉天皇から、皇室と国家を守る守護僧になってほしいとの誘いもあったが、増賀にすれば大変迷惑なことだった。

これでは、とうてい志を遂げることは出来ないと考えた増賀は、比叡山を去り、霊場の多武峰たぶみねに逃れて山に籠り、誰にも煩わせことなく心静かに修行を積みたいと師の慈慧に暇を請うたが、許されなかった。

落胆し、せっぱつまった増賀は、ここで思い切った行動に出ることにした。それは、狂気を装うことであった。(抜粋)

比叡山には、僧侶を接待し、食べ物などの供物を分配するところがあった。そこには位の高い僧侶が出向くことはなく通常は下っ端の僧侶が供物の受け取りに行った。

そこに増賀が、汚れた器をもって現れた。係の者が怪しんで、「どうして、自らおいでなのですか、自らもらい受けるなどとんでもないことです」と言った。すると増賀は、「自分でもらい受けたいのだ」と答えた。係の者が何か考えがあるのだと思って、供物を与えると、増賀は、供物をもって、麓から荷物を引き上げる人夫の元に行って、むしゃむしゃと食べ始め、まわりにいた人夫達に分け与えて、食べさせた。

これを見た人たちは、呆れかえり、これは気が違ってしまったに違いないと思った。それから、人びとは増賀を敬遠し気持ち悪がった。これを聞いた師の慈慧も、ここに至っては増賀を押しとどめても仕方ないとさじを投げてしまった。そして増賀は、やっと思いがかない比叡山をでて多武峰たぶみねに赴いた。

乞食と交わる増賀

この話と類似して、乞食と食べ物を拾い漁ったという話も伝わっている。

増賀は、自分に満足した道心が生じないことを悩み、根本中堂こんぽんちゅうどうへ千夜詣を行った。初めの頃は、礼拝を行うときに声を出すことはなかったが、六、七期百夜が過ぎると「付きたまえ、付きたまえ」と声を漏らすようになった。それが千夜目に近くなると「道心付きたまえ」とはっきり聞こえるようになった。人々は、これは大したものだと感嘆の声をあげた。

そして千夜を満ちると、世をいとう心が深くなり、どうにかわが身を用なきものにしてしまおうと、考えるようになった。そしてそのころ内論議ないろんぎという儀式に参加することになった。

内論議は、正月の内裏で天皇が高僧たちを召して、御前で議論させる年中行事である。議論は、あらかじめ筋書きが決まっていている形式的なもので、その内論議が終わると、宴会で貴族たちが食べ散らかした残り物が、ばらまかれ乞食たちがそれを広い喰するのが習わしであった。

この時、高僧たちの中から増賀が飛び出し、この乞食たちと一緒に残飯を食い漁った。これを見た高僧たちはびっくり仰天して、「禅師は物に狂ったか」と言った。すると

「拙僧は物に狂っているのではこざらぬわ。物に狂っておいでなのはそこにおわす貴僧たちではござらぬか」(抜粋)

と少しも狼狽せずに言い放った。この件があったのち、増賀は計略通りに表の世界から引き籠ることができた。

伊勢神宮の元現

増賀が狂気の振舞をして比叡山を去った経緯について、もう一つ有名な話がある。

増賀は、道心がぐらつくのを気に病んで、ただ一人、伊勢の大神宮に参詣した。そして夢のなかで「道心を起こそうというのならば、わが身をわが身と思ってはならない」という、神の元現じげんを得る。彼は、これは名利みょうりを捨てよというお告げに違いないと思った。

そして、増賀は、着ていたものを脱いで、乞食にくれてやり、素っ裸のまま帰路についた。これを見みた人々は、可哀そうに、きっと気が触れてしまったのだろうと思った。増賀は道々、食べ物を乞いながら、四日目にしてようやく比叡山に上り、師匠の慈慧のもとに帰った。

慈慧は、増賀を諌めたが、それを聞き入れるような増賀ではなかった。増賀は「あら楽しの身や、うおお、うおお」と叫びながら走り去っていった。

慈慧も、もはやこうなってはいたしかたないと嘆じ、みずから門の外まで出て、増賀の姿が見えなくなるまでずっと見送り、そぞろに涙を流したという。(抜粋)

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